0306 臆病

 児童心理司とは、児童相談所に携わる職種の中では以前まで『心理判定員』という呼称でした。その名のとおり、心理学の知識と経験をもって児童やその保護者の心理診断を重ねながら、子が持つ不安と親が抱える問題の両側面からアプローチし、心理療法やカウンセリング、助言指導を担う存在で、とても重要なポジションです。

 厚生労働省の児童相談所運営指針の改正により、児童心理司が専門職として一般的に位置づけられるようになるも、配置されている人数は全国的に私たち児童福祉司と同様、極めて不足している。同省は「すべての子どもの安心と希望の実現プロジェクト」に基づき策定された「児童相談所強化プラン」を公表し、その中にこの数年間で全国の児童心理司を500人程度増員すると目標を掲げている。

 

「そんな……、児童心理司だなんて……私には無理です」

「あらまあ、そうかしら」

 町田所長の表情は変わらず柔和だ。

「それに、毎日多い日には数十件と寄せられる相談や通告に、私たち児童福祉司がどれだけいても足りないほどの現状に、私だけが研修なんて……」

「あら、日常業務は基本的に変わらないわ。だからといってそれに加えてあなただけに重い負担を課すこともないの。元々あなたは児童心理司の任用資格は持ってるわけだから、必要な知識を学び、求められる経験を積むことで、十分その任を負うことができますよ」

「は、はぁ……そう言われましても」

 

 ――あの人なら、こんな時は私に何と言うのだろう……。「臆するな、前へ進め」とでも言うだろうか。でもこんな時、決まって私は前に進む勇気が足りない。自分に自信がない。だって……、私は……。

 

「あなたはお日さまみたいな人よね」

「えっ?!お日さま?!」

「そう、ほんわかであったかい。お日さま」

「そんな……」

 面談室の天井に近い、東側の高窓たかまどから朝のの光が差し込んで、柔らかな陽気を室内に広げていた。その明るい部分だけほのかにあたたかくて、まるで所長の言葉が形に表されているかに感じた。

 

「やって……みます」

 

「うん、ありがとう」

 町田所長はニッコリした。この人のニッコリが見られるなら、面倒事も片っ端から滅せられるような気がした。

 

「研修って、具体的にはどういう……」

「うん、これから一年間、臨床心理士の方と同行しながら通常業務にあたるの。家庭訪問などの外部活動と、児童の心理的ケアなどの内部活動を、いつも行っている記録類も流用して、研修レポートとしての成果を残しましょう。まあその後の事は私の仕事よ」

「…………」

「どうかしら」

「えっ?!えっと、『臨床心理士の方』ってどなたですか?!」

「はい、この人」

 町田所長は、その方のものであろう名刺を私に差し出した。

 

 東京都日野総合精神保健福祉センター

 臨床心理士〈 潮 水月 〉

 

 普通、名刺にはフリガナがあるものではないでしょうか……。その頂いた名刺にはそれがありませんでした。

「保健福祉センターは、うしおさんの本業よ。これから訪ねてみて。今日の11時にアポ取ってあるの」

「はい、わかりました」……うしおさん、ですか。所長、アポ済みって……ぐすん。

 それにしても所長のファーセーター、モフモフしてて柔らかそう……。

 

「触りたい……」

 

「なあに?」

 はっ!!!声に出してしまった!!!どうしよう……どうしよう……。

「あの、所長のセーター素敵ですね」

「ああ、あったかいよぉ~、触ってみる?」

「いいんですか」

 私は遠慮なく、椅子に腰掛けた町田所長の前にかがんで、私の頬をお腹の辺りにうずめてしまった。

「あっははは、かわいい。まるで猫みたい」

「す、すみません」

 自分の顔が赤いことは、もう確認するまでもなかった。

 

 ――東京都日野総合精神保健福祉センターは市立病院の近くにあった。陽は暖かくも風は冷たい……そんな気候です。それなのに、手前のテニスコートでは元気に練習する学生たちの姿が見えた。早く建物内に入ろうと中に逃げ込む。

 

「えっと、この場所で間違いない」

 その部屋の扉の前には、ネームプレートが掛かっていた。

〈 潮 水月 〉

 ――ううううむ。この下の名前……。まさか『くらげ』ではないですよね。『みずつき』『みづき』もしくは『すいげつ』。水面みなもうつつき……川端康成ですね。

 

「くらげではないのだよ」

 

「うわあああ?!びっくりした!!」

 音もなく突然背後から声を掛けられた私は、腰を抜かしてその場に座り込んでしまいました。

 ――ん?なんか食べてる……。チョコレート?!なんなのこの人?!

 

 ここからが、私の人生最大の苦難の始まりなのでした。

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