0321 椿事

「俺は抜け殻だ」

 

「まるで俺は、もう用無ようなしになったコンパスだ」

 

「冒険者はこのコンパスのお陰で目的地を踏破とうはし、偉大な冒険者としてその名声を手に入れた」

 

 

鳥嶋とりしまさん!ブツブツ言ってないで手伝ってください!」

 

 

「俺はあれだ、ロッキーのトレーナーで、チャンピオンを育てたあの人……誰だっけ?」

 ――池浪いけなみは大忙しだった。そりゃあそのはず、我が社が出版業界に誇る最大のコンペティション、昨年末に盛大に執り行われた『那珂文舎賞なかぶんしゃしょう』受賞のチャンピオン様ですものね。(剛編参照)

 

「ヤバいよー。これからインタビューなのに何も用意してないよー」

 それでええやん。それが池浪いけなみ耀あかるやん。そう言おうと思ったが、仕返しがコワいので、やめておいた。

 

 そんな俺にも『椿事ちんじ』が起こった。

 

 ピリリリリ、ピリリリリ、ピリリリリ。

 

 着メロが好かん俺のスマホにノーマルな音の着信があった。相手は……正直ビビった。俺、何かやらかしたかな? まあ、いっか。

 

「も~しも~し」

「相も変わらずきょうじょうじた応答だな」

「お前から電話してくるなんて、まさか俺、何かやらかした?」

「まったくもって、慇懃無礼いんぎんぶれい。何故にそうなる」

「ああよかった~。じゃあなんやね~ん」

「あのだな……、頼みがあるのだよ」

「へ?」

「日頃の僕へのをついに返す時が来たぞ、鳥嶋蓮角とりしまれんかく

「くっくっくっ、ぐあっはっはあー」

「何が可笑おかしい」

「お前、ホンマおもろいわ。水月みつきチャン」

 

「その呼び方はやめろ」

 

 それは、うしお水月みつきから俺への、頼み事の電話だった。

 水月から電話してくるなんて、俺が水月をエージェントとして頼った場合の、成果の折り返しの時くらいだった。……今までは。

「このあいだのブルーフルーツの件、助かったよ。ゴディバ堪能したか?」

「あれは大満足だったのだよ」

「そりゃ、よかった……。んじゃまあ、日頃のを返してやろうやん」

 

 その晩、俺は水月の自宅に招かれた。まずそれ自体、あり得ることじゃなかった。

「う~さぶっ」

 マンションのエレベーターを6階で降りた俺は、水月が扉を施錠しないことを知っていたこともあり、勝手に入らせてもらった。

「よおっ。お待たせ~」

「ここは貴様の部屋か」

「怒るなって、ほら、銀座デルレイのベルギーチョコ」

「恐縮の至り」

 

 水月の部屋はマンションのモデルルーム並みにキレイだった。到底、俺には真似できないレベルだ。

「キレイにしてんなあ」

「おい、正月早々に若洲海浜公園で起きた、会社役員殺人事件を知っているか」

「ああその事件、ウチの編集部でも担当してるヤツがいるよ」

「では、警察の捜査に本当に進展がないか、マスコミに報道を控えさせている内容があるはずなのだよ」

「あるよ。何でお前がそんなこと知ってる?」

「ある女が容疑者として浮上しているのではないのか?」

「お前マジか、そんなこと報道協定で記者クラブ以外、どこにも出てないはずだ」

 正直少し動揺した。水月のことなら多少のことは驚かんが、これはさすがに……。

「なぜその女が、容疑者第一候補などということになっている?」

 

「音声だ」

 

「音声だと?」

「会社役員の岩出弥彦いわでやひこさんが殺されたのが、新年もまだ5日目の深夜だった。弥彦さんは普段から、大の釣り好きだったらしい。その日も東京湾は若洲海浜公園の人気釣りスポットで夜釣りをしていた」

「被害者は、刃物で殺害されたと出ていた」

「ああ、何者かに刃物で首を刺されて失血死。翌朝その場所を訪れた釣り人に、海面に浮かんでいる被害者が発見された。当初は夜釣り中に誤って海に転落したのではないかと思われたが、司法解剖の結果は他殺だった」

 

「捜査は難航していたのではなかったか?」

 

「してたな……。現場は東京湾の人気釣りスポットとはいえ、正月もまだ5日目の夜に釣りする奴なんていなくて、目撃情報もない、付近の防犯カメラ映像も手掛かりなし、交友関係からも困難ってんで、警察は数十人体制で、その日の夜に付近で撮影された写真や動画の提供を呼びかけるとともに、SNSなどの投稿からも、捜査員は血眼で探ったらしい」

 

「それで音声が出たのか?」

 

「そうだ、出たんだ。女の声の音声が」

 

 水月の表情は険しかった。コイツがこの事件と、どういう関わりがあるのか知らんが、ここまで入れ込むには、それなりの理由わけがありそうだった。

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