0432 義務

 潮さんに『所長が私に用がある』と聞いて、早足で所に戻った私を、町田所長は待ってくださっていた。

 そして私に気付いて、所長は静かにうなずいた。私はそこに歩み寄る。

 

「長内さん、もうしばらくすると、ここに〈佐渡さど かい〉くんという6歳の男の子が来るの」

「はい。6歳の男の子……さど、かいくん、ですね」

「数日前、多摩地域で起こった通り魔事件、知ってますね」

「はい。知ってます」

「あの事件で、たくさんの子どもたちが傷付けられました。そして無念にもその場で子どもたちを助けようとした女性が亡くなってしまいました……」

「えっ……」

「佐渡開くんは、たった一人の家族を亡くしてしまったお子さんです」

 

 児童相談所は、事故や災害で家族を亡くしてしまい、養育者がいない子どもたちが入所する施設で安心して過ごせるようにサポートする存在でもあります。

 佐渡開くん6歳は、お母さんの佐渡美佐子さどみさこさん41歳を無差別殺傷事件で亡くしてしまった、母子家庭のお子さんでした。

 

 私は自分の就いた仕事とその役目が、常に子どもたちの人生のかなめとなる部分に極めて近い位置にあるものなのだと理解している。

 また自分が福祉人としても、人間としても、いたって未熟であると自覚した上でも、発する言葉ひとつ、接する子どもへの動作ひとつでも大きな意味を持つことも理解している。

 ただいつも、そのことを改めて理解しようとする度、残酷な現実が苦しくてその重圧に負けそうになる。

 

「長内さん、児相の担当ケアワーカー、お願いできるかしら」

 

 私は負けません。

 だって、私以上に私とは比べ物にならないくらい、子どもたちは苦しんでいるんです。傷付いた心をどうしたらいいか分からなくて、潰されそうになってるんです。

 

「もちろんです。私が担当します」

 

 以前の私なら、私になんて無理ですと、自信なくあわてたかも知れません。今もその気持ちは大いにあります。だって私は……。

 

「潮さんは、長内さんを推薦されたのよ」

「えっ?!潮さんが?本当ですか?」

「何か問題でもあるのかね」

 

 そう、今の私のパートナーはこの人でした。

 

「問題ありませんよ」

 

 それは最強の男、潮水月でした。

 

 

 

 

 佐渡開くんのお母さん、佐渡美佐子さんはその日の朝、息子の開くんを自宅近くの保育園へ送り届け、いつものように通勤路のバス停でバスを待つ列の、最後尾に並んでいた。列に並んでいた大半は小学生たちで、大人は美佐子さん一人だった。

 被害に遭った子どもの証言によると、刃物を両手に持った犯人の男は、列の前方から子どもたちに襲い掛かったらしく、次々に切りつけられる子どもたちを助けようと、大人の女性が犯人を止めようとしたのだという。犯行を目撃したバスの運転手は、その異変に気が付き、バスから飛び出し犯人を怒鳴りつけた。その時は、襲われる美佐子さんを助けようとした中学2年の男子生徒が、犯人に馬乗りにされた状態だったそうだ。直後に犯人は自らを刺し自殺した。

 

 開くんは、数日後に保育園の卒園式を予定していて、翌月には小学校の入学式を控えていた。母と子二人暮らしの親子は、その日を心待ちにしていたはずだった。

 開くんは産まれて間もなく父親を仕事中の労働災害で亡くしており、近しい身内もなく母親は残されたたった一人の家族だった。

 

 この日、佐渡開くんは、警察の担当女性職員の方と日野児童相談所に来られた。そこに立っていたのは、6歳にしてはまだ小さくかぼそい男児だった。

 開くんは警察の女性職員の方と手を繋いでいた。私たちを見た開くんは、不安な表情をあらわにし女性職員の後ろに隠れてしまった。

 町田所長はゆっくりと開くんに近付き、低くしゃがんで開くんに言った。

 

「こんにちは、佐渡開くん。私は町田五十鈴といいます。今日は開くんにお母さんのことで大事なお話しがあるの」

 

 このとき開くんは、まだお母さんが亡くなったことを知らされていませんでした。

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