0303 保護

 もうこうなっては、強制調査権の手続きなどと悠長なことなど言ってられない。私は玄関のチャイムを何度も鳴らした。

 そして間もなく、ものすごい勢いで開かれた扉は、建物中に轟音ごうおんを響かせた。

「何だっていうのよー!何度も!何度も!何度も!何度もうるさいんだよ!」

「異常な怒鳴り声と物音を聞きつけました。お子さんの安全確認をさせていただきます!」栗原先輩が素早く中の様子をうかがう。都合よく乱暴に開けられた扉のおかげで妨げなく見ることができた。

 

「美緒ちゃん!」

 

 美緒ちゃんは、玄関から少し入った先のトイレから倒れた状態で、上半身だけ廊下に這い出ていた。

「長内さん!救急車要請!」

「はい!」

 

 美緒ちゃんは、ぐったりした状態で救急搬送された。救急隊が到着するまで、毛布にくるんだ美緒ちゃんを抱きかかえていた私が感じたことは……、小学2年生の美緒ちゃんがとても『軽かった』ことでした。そしてそのおでこには、通告して下さった奥さんが言っていた『青アザ』がはっきりと残っていました。

 

「母親はずっと玄関先に座り込んだまま、病院からの通報を受けて駆け付けた警察に任意同行を促されるまで、ずっとうな垂れているだけだったそうです」

「美緒ちゃんはひどく憔悴しょうすいしていましたが、命に別状はないようです。日常的に受けた虐待によると思われる傷が身体からだのいたる所から見つかりました。増田さん宅は3人家族ですが、父親は仕事でほとんど家を空けている、単身赴任のような状態です。夫婦はともに20代、小学2年の美緒ちゃんの体重は年長児の平均体重を下回っていたそうです」

 

 私と栗原先輩は、日野児童相談所の職員メンバーと所長が集まったミーティングルームで今朝の保護案件の報告と、今後の対応を打ち合わせた。

「美緒ちゃんは退院後も一時保護、その後は今後の家族の様子……特に母親の状態を注視して対応に当たりましょう。可能であれば父親にも協力を得られるよう交渉すること」

 町田まちだ所長が指示を出す。所長の指示はいつも的確で分かりやすい。町田所長は都内の児童相談所では数少ない『女性所長』。あと数年で還暦を迎えられるとは思えないエネルギッシュな母なる大地を思わせる、私の憧れの女性です。

 

 児童福祉法改正では、今後数年間で児童福祉司を2,000人ほど増員し、業務量に応じて配置を見直すほか、併行してスーパーバイザーや児童心理司、保健師も増員。さらに弁護士も配置するなど、児童相談所の体制を強化するという内容も盛り込まれている。

 しかし今も、年間13万件超と過去最多を更新した児童虐待の対応件数は、約30年で100倍以上に膨らんだ。私たちの日野児童相談所でも、年間約1,500件の虐待相談に20~25人の児童福祉司で対応。1人当たり60件以上の相談に向き合っている。増員が進んでいるとはいえ、常に人手は足りていない。

 

「そもそも、児相じそうの数自体も明らかに不足しているこの状態で、私たち児童福祉司はその上をゆく人手不足なのよ」――栗原先輩はといった様子で呟く。

「そうですね……」

「本当はすべての子どもたちをまんべんなくケアして助けてあげたい……、でも今のこの状態じゃどうやったって無理。そんな中でも虐待事件として一旦マスコミに取り上げられれば、途端に児相の対応の悪さを叩かれる……」

 スイングしている暖房の送風口が、壁に向かって吹くタイミングで『児童虐待防止』のポスターの端が少しだけ揺れる。

「報われ……ませんよね」

「いやっ!ごめん!違うわ、私が今考えるべきは、そんなことじゃない! まずは先週中に家庭訪問したお宅の今後の対応の確認だわ」――私は栗原先輩のこういう所が好きだ。

 

「栗原さーん!外線2番にお電話です」

「はいっ」

「代わりました栗原です」

「はい、ええ、そうです。先週です……」

 そのとき私が何気なにげに見た、先輩の横顔は青ざめて硬直していた。

「えっ……、うそ。 幸喜こうきくんが……、亡くなったんですか……」

 

 私たちは無力だ。

 そして現実は残酷だ。

 

 今もなお、こうして児童虐待により日々、そして年間約80人もの子どもの命が失われているのです。

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