0330 後悔
私は見事に興奮していました。
この衝撃的な週刊誌の記事を見つけて、これを潮さんに読んでもらいたくて勇気を振り絞りここまでやってきてしまいました。それなのに……。
「これを君にひとつやろう。アンリ・シャルパンティエのフィナンシェだぞ」
私の背筋に戦慄が走りました。潮さんが私に洋菓子をくれるなんて、考えられません。何か裏があるとしか思えなかったからです。
「あ、ありがとう、ご、ございます」その受け取る手が震えて、大切なフィナンシェを落としそうになる。
彼の表情はいたって落ち着いて満足気だった。それが私にはどうしようもなく奇妙で仕方ありませんでした。
「それはそうと、この記事、見ていただけますか?!ディスパッチという写真週刊誌なんですけど、佐亜良さんが重要参考人として疑われている事件に関する記事が載ってるんですよ」
「それで?」
「それが、この記者の方は独自に真犯人と思わしき人物を特定していて、しかもその犯人が映っているドライブレコーダーの映像データを所持しているそうです」
「それは向こう見ずな人物だな。そんなことを書いて犯人に命を狙われないか心配なのだよ」
「あの、潮さん……真面目に訊いてくれてますでしょうか?」
「僕はすこぶる真面目だ。それでは君にいいことを教えて差し上げよう。その週刊誌の出版社が『那珂文舎オンライン』という映像配信サービスをやってるのだが、2月14日のバレンタインにはよく見ておくといいぞ」
「は、はぁ……。映像配信……ですか?何か見られるのでしょうか?そもそも、それとこれと何の関係があるのでしょう……?」
「まあ、見ればわかるのだよ」
この時の潮さんの説明は1ミリも理解できなかった私ですが、4日後のバレンタインデーに那珂文舎オンラインにあがった新着映像を見て、私は度肝を抜かれたのです。
タイトルが『那珂文舎ディスパッチが撮影に成功 若洲海浜公園会社役員殺人事件の真犯人逮捕の一部始終』でした……。
そしてその映像は、この事件の概要からこれまでの警察の捜査の進展、そして私も読んだ記事の詳細がドキュメンタリー形式でまとめられていました。そしてスクープ映像は、暗い駐車場で記者の男性に襲い掛かった犯人がその後、警察に取り押さえられるシーンで、捕まったのは男女二人だと判りました。顔にボカシ処理がされていたものの映像にはテロップが付けられ説明がありました。
ただ印象的だったのは映像の終わりに『逮捕された姉弟は、共謀して岩出弥彦さん(55)を殺害、その動機は過去にこの被害者が性的暴行の疑いで不起訴になった事件の被害女性が、この二人の母親だったことから、その怨恨の可能性が高いとみて警察は引き続き捜査している』という、襲われた記者の方の文章でした。
――数週間後
「こんにちは、長内さん」
「あっ、佐亜良さん。こんにちは、お待ちしてました」
佐亜良さんはあのスクープの直後、すぐに釈放されました。そして今日は、芽恋くんがお母さんの元へ帰ることが許された日です。
「私、離婚することにしました。もう家も、出ました」
「ええ、お聞きしましたよ」
佐亜良さんは暴力から勇気をもって脱しました。それは愛する息子、芽恋くんのためだったのです。
「頑張ってください」
「はい、ありがとうございます、私、後悔してるんです」
「えっ?」
「もっと、はやく、メレンとここに、来ればよかった」
私は胸の奥が熱くなりました。あの時ここに初めて来た悲しげな親子が、今ここでこんなにも幸せそうであることに……。
「よかったな、芽恋くん」
潮さんは芽恋くんの前にしゃがんで、彼の両手を握っていました。その手の中にはチョコレートが左右ひとつずつ持たされていて……。
そして彼は芽恋くんを優しく抱きしめました。
――よかったな芽恋くん……。あの時と同じ、彼のその言葉が私の心に強く響きました。あのとき彼に怒鳴り散らした私は、自分が恥ずかしくて堪らなかったのです。
街路樹から差す雨後の木漏れ日に照らされて、幸せそうに歩く母と子の後姿を、私たちはいつまでも見送っていました。ふたりがいつまでも幸せでいられますようにと祈りながら。
「佐亜良さんは、どんなお仕事をされるのだと?」
「タレントさんですよ」
「復帰だな」
「違うんですよ」
「ん?」
「手のモデルさん、手タレさんです」
「手の……なるほど」
あの、母と子が引き裂かれたあの時、あの小さな手で一生懸命に握っていたお母さんの手が、あの子の元へ戻ってきた。そのお母さんの手は、あの時も今も、とても綺麗な手をしていた。
「ネモフ」
「もふ?」
「おはなしして」
「ネモフのおはなし……。ユダヤの王子様」
「うん」
むかしむかし、ローマの国にそれはそれは美しい女性がおられました。彼女は誰からも愛され、誰からも慕われていました。
そんな彼女は苦しむ民や、差別を受ける人々を助けるために、いつも闘っていたのです。
彼女は、いつもユダヤの神様にお祈りをしていました。皆が幸せになれますようにと……。
そして彼女はとある国の王に見初められ、結婚し王女になりました。そしてめでたく息子を授かり、王子は将来、王になることを約束されました。
でも王子は生まれつき病気で、王様には可愛がられませんでした。王様は自分に似ていない王子を毎日いじめていたのです。そのことを王女は毎日のように悲しんでいました。
そんなとき、ふと城を訪ねてきた若い男が言いました。幸せを信じ愛するものを守りなさいと。
彼女は決意しました。それは傲慢な王の野放図から、身分を捨てて解放されることでした。
それからの彼女は貧しくも幸せでした。
いつもお祈りしていた神様が、あるとき彼女に言いました。
あのとき、城にきた若い男の名はイエスという名だったのだよと。
アレルギー性カテゴライズ〈柔編〉
ベン・ハー【終】
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