0313 意思

 それは栗原先輩から、さほど意図せず引き受けた一件の家庭訪問だった。

 

「長内さんこのお宅、家庭訪問お願いできるかな」

「はい、いいですよ。わかりました」

 そのお宅はというと、先日この児相に母親と息子の一組の親子が訪れたのだという、栗原先輩の話から始まった。

「正面入り口のあたりで中をうかがっていたみたいだったから、声を掛けたら育児について相談があるってことで、面談室でお話ししてね。家庭の状況なんかを教えてもらってたら、そのお母さんの携帯電話に電話が掛かってきて……」

「ふむ、電話が……」

「あわてて、やっぱりいいですって言って帰っちゃったわけ」

「相談せずに?ですか?」

「そうそう」

「忙しかったんでしょうか……」

「そうかも知れないんだけど……」

「なんです?」

「お母さんは、海外出身の方……たぶん中東の方?」

「日本語は?」

「結構お上手だけど、少しカタコトな所も多かった」

「息子さんって?」

「男児で4歳だわ。私から、元気かな?って話掛けたんだけど目は合わせてくれなかったのと……、テレビの変身ヒーローの同じセリフを繰り返し言ってたから会話にならなかった」

「虐待の様子はなさそうですかね」

「たぶん、なさそうには見えた」

「オッケーです!わかりました!」

「ごめん!最優先案件の所に行って来ます!」

「お願いします!」

 

 栗原先輩のホワイトボードに『最優先案件3件!』のメモが、私がプレゼントした『モフモフさんマグネット』で貼られていた。モフモフさんは犬でもない白熊でもない謎の生物なんです。

 

「という、お宅なんですよ」

「変身ヒーロー? それは何の変身ヒーローなんだ?」

「そこまでは知りません」

 私は、潮さんにそのお宅の情報をお知らせした。潮さんの興味を引き付けたのは『変身ヒーロー』の部分だった。

「繰り返しって、どういうセリフなんだ?」

「だから知りませんって」

「まったくもって、曖昧模糊あいまいもこ!重要な情報が極めて不足している!」

 怖いよー、恐いよー。潮さん、機嫌悪い? コワいのは特殊なコダワリの怒りについてですけど。

「今日は甘いモノ、いらないんですか?」

「ぐぬう、迂闊うかつだった。今、持っていないのだよ」

 ――まさか……。初めてお会いした時もこんなだったような。この人、甘いモノを切らすと機嫌が悪くなるタイプですか?

「まるでカルシウム不足みたいですね」

 

「人間がカルシウム不足で不機嫌になるなど、何の医学的根拠もないただの都市伝説なのだよ!君は大学で何を学んできたんだ!」

 

 触らぬ悪霊に祟りなし……、ほっときましょう。

 

 私たちは栗原先輩から受け取った『相談通告受付票』にある住所のお宅に伺って、正直少し面食らったのでした。

「本当に間違いないのか?」

「ええ、このマンションで間違いありません」

 ここへ来る途中にいつの間にか買い物していた潮さんは、満足気におやつを頬張りながら見上げた。

 そこは十数階建ての高層タワーマンションだった。入り口はオートロックゲート式のエントランスモニターから呼び出すタイプですが、この場合かなりの確率で門前払いを受ける可能性が高いので、私は苦手だった。

 リーンゴーン、リーンゴーン。

「はーい」

 応答してくださった音声は母親らしかった。

「私、日野児童相談所の長内と申します。先日、親子でお越しくださったご相談のことで伺ったのですが、その後いかがでしょうか?」

「ああ、はい。どうぞ」

 少しホッとした。そして開かれた自動ドアは、潮さんの身長よりもどれだけ高いのだろう、ゆうに3メートルはありそうだった。ロビーは洋風の明るい照明が、きらびやかでゴージャスな高級ホテルのような雰囲気を創り出していた。

「食べながら入るんですか?」

「モロゾフのココアピーナッツだからな」

 とりあえず意味が分かりませんので無視です。

 エレベーターを降りると、親子は玄関ドアから出て待っていてくれた。

「えっと、仁科にしなさんですね」

「はい、そうです。わたしは仁科佐亜良サアラです。イスラエル出身です。この子は、芽恋メレンです。4歳です。」

「仁科さんのご主人は日本の方で、国際結婚でいらっしゃるんですね。芽恋くんはハーフってことですね。日本語はどうですか?」

「にほんごはどうですか!にほんごはこうです!」芽恋くんは私を真似た。

「ははは……」私は少し苦笑いだった。

「メレンは、日本語、まだ少しダメです」

「お母さんとの会話は、日本語ですよね?」

「にほんごですか!にほんごです!」

「芽恋くん、好きな変身ヒーローは?」

「…………」

 私が話しかけた途端、芽恋くんは黙って隠れてしまった。

「あの……、お母さん、児童相談所へは?」

 その時、ご自身のスマホを見ていたお母さんは慌てた様子でこう言った。

「スミマセン、今日は、もう帰って!ごめんなさい」

 

 ――私たちは、あっけなく追い出されてしまった。

「何だったんでしょう……」

「あれは……、少し調べる必要があるかも知れぬ」

「えっ?」

 私は、何となく普段目にしない彼の表情に不安を覚えた。

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