23:10月20日のこと ーささやかな夢ー
土曜日は快晴だった。昼前に窓も扉も全開にすると、爽やかな空気が室内に満ちた。もともと静かな村だが、その日は天国のような静けさだった。
宿舎の横では碧が、しゃがみ込んで草むしりをしていた。相変わらず濃い緑色の作業着を着ている。ふくよかな背中の丸みが艶めかしく映った。
「手伝うよ」
答はなかったが、僕は少し離れたところで草むしりを始めた。いつの間にか碧が傍に寄ってきていて悪戯っぽく言う。
「だんだん」
僕はからかってみたくなった。
「それって、段々腹のことかな」
碧はむくれた振りをした。
「私のことを言っているのね」
「いや、そういうことじゃないよ」
しどろもどろになっている僕を見て碧は笑った。
「だんだんというのは、ありがとうという意味の方言よ。平野さんは鳥取の人だから聞いたことがあるでしょう」
「まさかここで耳にするとは思わなかったよ。この村でも使ってるの?」
「いえ。小学校の時、西山という先生に教えてもらった」
段々という村名は、出雲言葉に由来すると唱えた人がいたそうだ。昔、出雲の人たちは鉄を求めて、この地に移ってきた。良質の鉄が採れたことを神に感謝する意味で、この地をだんだんと呼んだという。
「ありがとう村か。ほのぼのとした感じでいいね」
「でも西山先生は、それは違うって言ってた。それほど古い言葉じゃないって」
会話は途切れた。碧は夢見るような表情で立ち上がり、西南の方向を指差した。
「ほら、あの山」
僕も立った。村を取り囲む崖の向こうに険しい山の頂が見えた。標高は五百メートルはあろう。
「
仙とは伯耆大山のことで、それに随う山という意味で仙随山と名付けられたそうだ。冬のよく晴れた日には、その頂から白く輝く大山を目にすることができるという。当然、命名したのは古の段々村の住民だろう。
この村と自分の故郷の山との関係には正直、驚いた。大山での乗馬の記憶が蘇ってくる。
碧は無邪気に言った。
「行ってみたいな、あの仙随に」
「碧さんは行ったことがないの」
「ええ。でも登ってみたくなった。春になったらお弁当を持って行って、海を見ながら食べたい。いい眺めでしょうね」
碧はすがりつくような眼差しになった。
「ねえ、平野さん。いろいろなことを聞かせて。私、この村と琴浦町しか知らない。学校もろくに行かず、お勤めしたこともない。私、バカだから、本当にバカだから。バカで取柄がないから、どうしようもない」
またしても僕は返答に困っていた。ただ彼女を貶めて縛り付けて、与えられた役割をこなせるようにだけに仕立て上げた村への憤りは、以前よりずっと強まってきていた。
僕は険しい表情をして見せた。
「しまいには怒るよ。碧さんはバカじゃない」
彼女はべそをかいた顔になった。
「じゃあ、ブスだ」
僕は表情を緩めた。
「何度も言わせないで。ブスでもない」
碧は下を向き、力なくうなずいた。
僕は会社勤めをしていた頃を思い出していた。飯沢由衣子は旅行と服と食べ物の話しかしなかった。それは時に田舎育ちの僕を揶揄するかのように聞こえた。
僕は海外は、会社の慰安旅行でグアムに一度、行ったきりだ。服も雑誌を参考にしないと組み合わせができない。おいしいものは、なんとかのポワレとかなんとかのムニエルではなく故郷の海鮮料理だと内心では思っていた。
それなのになんと背伸びした日々を送っていたのだろう。あの仙随山で缶ビールを片手におにぎりを頬張るのは、一流レストランで訳のわからない料理を食べるより、よほどすばらしいことに思えた。
碧はそわそわし始めた。
「お父さんとお母さんが、もうすぐ帰ってくる。家にいなくては」
一緒にいるところを見られたら、まずいのだろう。余計な知識を吹き込んで役割の遂行に支障が生じたり、恋愛関係になって村の秩序が乱れるのを心配しているのだろうか。それにしても久吾屋が夫婦そろって外出とは珍しいことだ。そもそもどこに行くというのだろう。
「柘榴峰に行っているの。秋祭りの下準備をしに」
そう答えると碧はちょこんと頭を下げた。
「私、約束する。もう自分のことをバカとかブスとか言わないって」
冗談めかした言い方だったが、その表情には決意が感じられた。
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