43:12月31日 20時頃のこと -洞窟の惨劇ー

 洞窟の扉の小さい穴からダンは飛び込んできた。それを目にした途端、三月は野獣のような声を上げた。

「犬だあ」

 彼女は即座に弓を構え連射した。命中する直前で、ダンは軽やかに左右に動き矢を避けた。同時に太鼓の奏者たちは手にしていたばちを投げつけたが、当たるはずもない。女たちは右往左往している。三月は「ウソだ、ウソだ」と呟いていた。矢が外れたのが信じられないようだ。

「うろたえるな」

 信士は叫ぶと、ダンに向けて二発撃った。ダンは真横に跳んで難を逃れると、そのまま垂直に近い壁を高速で駆け上がった。信士はさらに発砲した。ダンの黒い毛がぱっと散った。さすがに仰角すぎて狙いが定まらないようだ。

 ダンは天井近くまで達すると、身を翻し流星のように下に跳んだ。着地までのわずかの間に、ダンは馬ほどの大きさになっていた。村民は驚きと恐怖のあなり逃げまどうばかりだ。三月も信士も武器の使用をためらっていた。下手をすると村民を殺傷するおそれがあった。ダンは僕の方に一直線に駆けだした。

「早く碧を落として」

 同時に三月の叱咤が聞えた。僕が動かないと見るや、三月は碧の背を力任せに押した。碧は悲鳴を上げて大穴に消えていった。救わないといけないという一心で僕は大穴に身を躍らせた。

 途端に下から生温かい水が勢いよく噴き上がってきた。大穴は間欠泉だったのだ。激しい水流に翻弄されながらも、僕は碧を抱きとめることができた。けれども強く渦巻く水に身動きができない。もがいていると下から大きな影が浮き上がってくる。怪物だろうか。

 溺れ死ぬか、食われて死ぬか、どちらが苦痛が少ないだろう。それにしても取るに足りない人生だったな。いくつかの思いが稲妻のように脳裏に閃いた。

 その時、頭上から何かが飛び込んできて僕の胴体を咥えた。碧を強く抱きしめ、いよいよ死ぬのだと覚悟を決めた。ところが歯は皮膚には食い込んでこない。そのまま水に少し沈む。下から黒い影が、いよいよ迫ってきた。

 僕を咥えたものは黒い影の接近を待って、その上に乗り身を縮めた。次の瞬間、それは黒い影を踏切板の代わりにして一気に身を伸ばし、僕を咥えたまま大穴の外に跳び出した。着地すると同時に僕の胴体から歯が外れ、碧を抱いたまま白い砂の上に横たえられた。見上げるとダンの嬉しそうな顔があった。

「危ない」

 僕は叫んだ。信士がダンを狙っていた。ダンは一瞬で元の大きさに戻った。その頭上を弾がかすめていく。「けっ」という信士の声が聞えたような気がした。しかし二発目は発射されなかった。もうそれどころではなくなっていた。大穴から巨大な怪物が飛び出してきて、周囲の状況を窺いながら歩きはじめていた。噴出する水に乗って僕たちを襲おうとしたが果たせず、勢いあまって出てきてしまったのだ。

 怪物は、頭の先から尻尾の先まで優に二十メートルはあった。伝説のとおり姿形は全体に山椒魚に似ており、大きな頭部が印象的で太い胴体には短い脚が六本あった。全身が濃い茶色で、緑色の大きな斑点があちこちにあった。頭部にはいくつもの赤い瘤が突き出ていて、まるで弾けた柘榴の実を思わせた。これが柘榴井という名字の由来なのだろう。

 見上げると、岩の舞台の上には三月の姿だけがあった。彼女は陶酔のあまり喚き立てていた。

「ああ、神様。ああ、神様」

 噴き上がる水の勢いはいよいよ激しくなり、飛沫が顔にかかるまでになった。ついに先に現れた怪物に追随するかのように二頭目が出てきて、三月をひと呑みにした。僕は半ば気を失っている碧を引きずって、必死で岩の舞台のはなに身を寄せた。二頭目は、僕の目の前を白い腹を見せて下りていった。

 岩の舞台に溢れた水が滝のように落ちてくる。その水流に乗って三頭目が滑るように下りてきた。そこで水の噴出は止まり、洞窟の中に静寂が訪れた。怪物は、妙子の言ったとおり「ぷしゅー」という音を発しながら、ゆっくりと三方から村民たちを追い詰めていく。意外に知的で慎重な生き物らしい。村民たちは悲鳴も上げられないようだ。

 その隙に僕は、碧を引きずって屏風のような岩を目指した。その岩と壁面との間は、わずかに開いているように見える。そこに逃げ込もうと思ったのだ。人が入れるかどうかはわからないが、賭けるしかない。怪物の高さは二メートルはあったから、信士には僕たちは見えない。当面、狙撃される心配はなさそうだ。

 次第に追い詰められていく村民たちは、村長のいる窪みに避難したがっていたようだ。そこは下半分に鉄格子が設置してあるので怪物は入って来られない。けれどもその前で信士が猟銃を向けて、立ちふさがっているらしい。

「狭いんだから、入るな」

 室見川助役の切羽詰まった声が聞えた。

「信士、神様だろうが撃ってくれ」

 信士はその懇願を冷たく拒んだ。

「神様を撃てるわけねえだろ。てめえは助役として恥ずかしくねえのか」

 室見川暁子が叫んだ。

「親をてめえ呼ばわりするなんて、あんまりよ」

 信士は言い返した。

「飲んだくれの田舎っぺが親だと。ふざけるな」

 石切屋伸良の怒号が響いた。

「いい加減にしろ」

 信士に詰め寄ろうとしたようだが、天井に向かって威嚇射撃が行われた。その後、信士が素早く鉄格子に飛びついて窪みに入るのが見えた。同時に屏風のような岩の後ろから石切屋保良と忠良が駆けでてきた。兄の伸良のことが心配になったのだろう。二人は僕に気付き睨んできたが、その時は手出しはしなかった。とにかく身を潜められる隙間があることはわかった。

 威嚇射撃の音は怪物をいたく刺戟したらしい。一頭が急に体を伸ばしたかと思うと石切屋伸良を呑み込んだ。それは不思議な光景に思えた。血も苦悶に満ちた顔も見えない。ただ突然、人が視界から消えるだけなのだ。死を目の当たりにしているという現実感がなかった。

 仕立屋静作が運よく囲みから脱け出し、岩の舞台に向かって駆けながら叫んでいた。

「奥なら安全だぞ」

 それは岩の舞台から続く、細い洞窟を指すようだった。妙子と衛門はそこに逃れたのだろう。しかし怪物は予想外に敏捷だった。一頭が軽く跳躍し、静作を呑み込んだ。

 その直後、僕は碧とともに屏風のような岩の後ろに転がり込んだ。岩と壁面との間は肩幅くらいしかなく、怪物は入って来られないだろう。しかし長時間いられるはずもない。朦朧とする頭で、洞窟からの脱出方法を見出そうとした。入口の鍵箱までたどり着ければ外に出られる。けれども怪物に悟られずに行ける自信は、まるでなかった。

 僕は腹ばいになって、恐る恐る岩の左手から顔だけ出した。入口までの状態を確認したかったのだ。たちまち、わずかの間に惨劇が連続した。恐怖のあまり立ち尽くしたままの小作屋夫婦が、怪物の餌食となった。逃げまどっていた芝刈屋夫婦と仕立屋待子も犠牲となった。

 久吾屋夫婦は幸運にも入口まで逃げおおせていたが、未明が鍵箱に手をかけた瞬間、信士に撃たれ倒れた。

「勝手なことをするな、乞食夫婦が」

 信士の怒号が響いた。その言葉に衝撃を受けたのだろう。六津は棒立ちになり、すぐに怪物に呑まれてしまった。いくらなんでも雅樂は暴挙を止めないのかと義憤を感じたが、姿が見えない。村長と錬堂教授の三人で奥の方で何やらしているようだ。

 未明はぴくりともしない。恐らく亡くなったのだろう。不思議なことに怪物はそれを無視したままだった。動きの止まった物は襲わないのかもしれないと思ったが、もしそうだとしても後の祭りだった。

 窪みの中に村長の姿が現れたが、あろうことか信士と口論を始めたようだ。錬堂教授も姿を見せたが、こちらは這いつくばるようにして何かを捜している様子だ。続いて現れた雅樂は、混乱している三人を尻目にかけると小ぶりのリュックを背負い、目前を通り過ぎる怪物の背に飛び乗った。そして二頭目、三頭目と渡っていく。いつもながら理解を超越した行動だった。

 その時、石切屋保良と忠良が、僕のいる岩陰に再び逃げ込んできた。立ち上がった僕に血相変えて迫ってくる。

「お前が大人しく従わないから、神様が怒ってしまったんだぞ」

 二人が僕に飛びかかろうとした時、岩の上から何者かが間に割って入ってきて、一瞬にして両人を殴り倒した。

「間に合って良かった。大丈夫ですか」

 そこにいるのは雅樂だった。どう反応していいか、わからなかった。

「平野さん、助けに来たんだ。動かぬ証拠をつかむためには、リスクを取るしかなかった」

 さすがの雅樂も少々乱暴な言葉遣いになっていた。

「逃げよう。とはいっても外は氷点下八度だ。まずは、その女性を何とかしないと凍死してしまう」

 その言葉が終わらない内に銃声が轟き、背後の岩壁に二発着弾した。

「裏切者、出てこい」

 信士の憎々し気な声が聞えた。雅樂は苦々しい表情だ。

「執念深い人だ。跳弾を狙っているのかな」

 背後の岩に跳ね返る弾で、僕たちを仕留める気ではないかという。とにかく姿勢を低く保つしかない。

 雅樂はリュックから替えの肌着とタオルそして大きいビニール袋、アルミ製のシートなどを取り出し、呆然と座ったままの碧に手渡した。

「身体を拭いて、男物で悪いが肌着を着て下さい。ビニール袋は適当なところに穴を開け、その上から被って。そしてシートを身体に巻いて前をピンで留めて下さい」

 雅樂も僕も顔を背けた。装束の下は裸だとわかっていたからだ。僕が自分の上着を提供しようとすると、雅樂に強い口調で制止された。

「あなたが凍え死にますよ。止めなさい」

 ふと犬の唸り声に気付いた。雅樂は上着のポケットから超小型のビデオカメラを取り出し、洞窟内の現状が撮影できるように地面に置いた。モニターには再び巨大化したダンが、怪物どもに挑みかかっている光景が映った。ダンは信士に狙撃されないように巧みに怪物の身体を盾にして、その頭の瘤や貧弱な脚に噛みついている。しかしまさに多勢に無勢だ。怪物の動きを少し弱めるだけで精一杯のようだった。

 ダンの反応速度がわずかでも鈍れば、怪物か信士の猟銃に斃されてしまうだろう。このままでは危ないと感じたが、なす術がない。

 向かいの窪みでは、錬堂教授と信士が村長につかみかからんばかりだ。雅樂は早口で言った。

「爆発が起きないものだから内輪もめしているんですよ」

「琴浦町は無事なんですね」

「もちろん。私のチームが起爆装置を解除しましたからね。あれ今度は、信士氏までスペアキーを捜しはじめたようだ」

 雅樂はポケットから鍵を取り出した。

「村長のセカンドバッグから拝借しました。泥棒にも三分の理ですかね」

 窮地に陥っているのに雅樂は余裕を取り戻しつつあるようだ。碧が着替え終わった頃、雅樂が呻くような声を上げた。

「とんでもないことだ」

 僕もモニター画面に釘付けとなった。信士が村長の顔面を銃床で幾度も打ち据えている。鼻血を噴き上げながら鉄格子に寄りかかった村長を、信士はためらいなく下に落とした。すぐに怪物がその身体を丸呑みにした。

 すぐに信士は猟銃を背負うと、棒のような物を手にして鉄格子を開き飛び下りた。錬堂教授も五千万円入りのケースを抱え、信士に続いた。信士が手にする物からは激しい炎が噴き出している。雅樂は感心したように言った。

「草焼き用の火炎放射器です。用意周到ですね」

 さしもの怪物も噴出する炎にはだじろいでいた。二人は無事に入口までたどり着こうとしている。その後に室見川助役が追いすがっていく。まだ無事だったことに安堵したが、妻の暁子は怪物の胃に収まってしまったのだろうか。

 雅樂はビデオカメラをポケットに収めながら言った。

「さあ、我々も参りましょう。いいヒントをもらいましたから」

 雅樂はリュックから登山用のガスバーナーを取り出し点火した。僕も覚悟を決めた。碧も無言でうなずいた。それを見た雅樂は岩陰から足を踏み出した。僕も碧を背負って付いていく。一頭が接近してきたが、雅樂が炎を突きつけると少しはひるんだようだ。けれども草焼き用より炎が弱いので、僕は不安でたまらなくなった。

 その時、他の二頭を相手に奮戦していたダンが、身を翻し駆けつけてきた。僕たちを狙う怪物の頭に飛び乗ると唸り声を上げて、いくつもの瘤に噛みついた。そこから赤い血が吹き上がる。怪物は苦悶して後ろ脚で立ち上がった。ダンはいったん地面に下りると、そこから跳躍して怪物の喉笛に食らいついた。 

 その隙に僕たちは怪物の下を抜けた。頭上では怪物が、喉にぶら下がっているダンを必死に前脚でつかもうとしていた。僕は叫んだ。

「もういい、ダン。逃げろ」

 信士と錬堂教授は入口まで達した。信士は鍵箱から鍵を出すと扉を開けた。室見川助役も出ようとしたが、信士に炎を放ったままの火炎放射器を投げつけられ阻止された。無慈悲に閉まった扉越しに信士の声が聞えた。

「田舎暮らしとは、これでおさらばだ」

 助役は顔に火傷を負いながらも扉に取りついたが、絶望の声を上げた。

「外から鍵をかけやがった」

 その直後、僕たちも入口に着いた。ダンは怪物の喉から離れ着地すると、怪物たちの前に立ちはだかり咆哮した。すでに三頭とも僕たちの背後に迫っていたが、この威嚇のおかげでわずかに余裕が生まれた。

 雅樂は飛びつくようにして鍵を鍵穴に入れ、体当たりで扉を開けると放心している助役を引きずりだした。同時に僕も碧とともに転び出た。その瞬間、雅樂は絶叫した。

「どうするんです」

 室見川助役が雅樂の手を振りほどき、洞窟に戻ったのだ。もはや彼の姿を見ることはないだろう。

 ダンは出て来ない。斃されたのだろうか。けれども予想は裏切られた。ダンの背中が目に入った。怪物の鼻面に噛みついたまま、押し出されてきたのだ。その恰好は、まるで背伸びして果物を取ろうとする熊のようだった。

 僕は碧を背中から下ろすと、ダンを大声で呼んだ。ダンは僕の無事がわかると怪物から離れ、後ずさった。荒い息をしながらも嬉しそうに尻尾を剣のように振っている。碧はそれを見てひどく怯えていた。僕は囁いた。

「怖がらなくていい。友だちだ」

 もう誰も洞窟から出てくる気配はない。僕は中の様子を確かめようと入口に向かって一歩を踏み出した。安心するのは早かった。目の前に怪物の顔が現れた。僕は文字どおり腰を抜かしたが、雅樂に助け起こされた。

「身体は出せないでしょう。それくらいは計算済みのはずです」

 すぐに怪物は引っ込んでいった。



 



 


 



 


 

 

 

 

 








 

 

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