44:12月31日 20時30分頃のこと -村兵との闘いー
風は弱まり、いい月夜になっていた。碧はうずくまって嗚咽していた。僕も気が遠くなりそうだった。無理もない。現実を超越したことが目の前で起こったのだ。雅樂ですら何度も深呼吸をしていた。
僕は腰を落とし、ためらいがちに碧の肩に手を置いた。彼女は顔を上げた。その眼差しからは、僕に対する不信の念は消えていた。
「助けてくれてありがとう。でも、これからどうしよう」
雅樂が歩み寄ってきた。
「今は何も考えなくていいのですよ。まずは病院に行きましょう」
「私、おカネがない」
碧の声は消え入るようだった。雅樂はなおも優しく言った。
「ですから何も考えないで。すべて私たちに任せて下さい」
次いで雅樂は僕に向かって言った。
「早く下りましょう。碧さんが凍えてしまう」
僕も同感だったが、村民のことが気懸りで仕方なかった。
「誰も出てきませんね」
僕はそう言いながら、室見川助役のことを考えていた。どうして自ら洞窟に戻ったのだろう。信士の裏切りのせいか、それとも何らかの責任を感じたからか。村の在り方に同調していただけで悪い人ではなかったと思う。
次に御田島村長のことが頭に浮かんだ。犯罪史に特筆される寸前だったが、愛すべきところはあった。帰村さえしなければ、ごく普通のサラリーマン生活を送っていたことだろう。
雅樂も洞窟を見つめていた。
「扉は開けておきましょう。幸運を祈るしかありませんね。もう私たちの手には負えません。警察に一任するしかないでしょう。ああ、読みが甘すぎた。ここまで酷いことになるとは」
雅樂が天を仰ぐと碧は呟いた。
「私のせいで皆、死んでしまった」
実は僕も同じようなことを考えていた。僕が人身御供たちを突き落としていれば、他の村民は助かったのではないか。けれども雅樂は噛んで含めるように言う。
「碧さん、それは違います。どちらにしても錬堂教授と信士氏は、カネ欲しさに村民を閉じ込めるつもりでした」
僕は耳を疑ったが、説明を聞いている時間はない。その時、小気味よい音が風に乗って聞こえた。琴浦町の花火大会が、いよいよ最高潮に達しようとしているのだろう。
滑り台まで急ごうとすると、ダンが僕の前で伏せをした。背中に乗れと勧めているようだ。戯れに背中にまたがると、ダンはすっくと立ち上がった。
雅樂が感心していた。
「まさに一心同体、同志ですね」
碧を先に滑らせ、雅樂も滑り台に乗った。二人を見送ると僕はナップサックから取り出したマフラーをダンの頸に巻き、手綱代わりとした。
「ダン、行こう」
ところが鳥居をくぐろうとすると、僕の頭が笠木にぶつかってしまうことがわかった。参道を外れると、あまりに急傾斜なので振り落とされてしまうだろう。するとダンはひょいと鳥居に跳び乗って、まるで飛石を渡るかのようにその上を渡っていく。
最初は生きた心地がしなかったが、自分の乗馬技術を信じた上でダンに身を任せることにした。父にさせてもらった乗馬が、こんなところで役に立つとは思ってもみなかった。
ダンが跳ね過ぎるたびに鳥居は倒れていく。冒瀆の所業だったが、今の世に人身御供の祭りなどする方がよほど罰当たりだと自己弁護した。そしてあの怪物が気の毒にも思えていた。静かに生きていたいだろうに、わざわざ刺戟して無用な行動をさせることに怒りが湧いていた。
碧と雅樂にわずかに遅れたが、無事に下に到着した。ほっとひと息つく間もなく、闇の中でダンが耳をぴんと立て鼻を上げて緊張した様子になった。僕は背中から降り手綱代わりのマフラーを外すと、ダンは元の大きさに戻り近くの茂みに身を潜めた。
「誰か来るようです」
僕が言うと、雅樂は拳を軽く握りしめた。南の方から車のヘッドライトが迫ってくる。すぐに村兵車のミニバンだとわかった。車は僕たちの前で停まり、中から黒い戦闘服を着用しカービン銃を携えた四人の村兵が現れた。点けっぱなしの車の灯りで目が眩む。
ゴウが疑わしそうな目付きで言った。
「珍しいトリオですね。久吾屋のお嬢さんは、服はどうしましたか」
雅樂は碧に無言でいるように目配せした。
「彼女は衰弱しています。一刻も早く救急車を呼ばせて下さい」
エリが言った。
「ええ、そうしましょう。ですがその前に男性陣は、鳥居が次々に倒れていった理由を説明して下さい。何かご存知でしょう。山野瀬巡査は、何かが上を跳ね渡って行ったようだとおっしゃっていましたが」
村兵は別の場所にいたが、山野瀬の要請を受け出動したものらしい。雅樂も僕もしらばっくれた。サムが皮肉っぽく言った。
「先ほど室見川信士さんから、ここから先は誰も通すなというご指示をいただいた。思い出す時間は十分に差し上げますよ」
シュウが独り言のように言う。
「大きな犬を見たら即座に射殺しろとも言ってたな。本職は人間は撃てても犬はだめだ。どうしたものかな」
雅樂と僕は顔を見合わせた。碧は寒さに震えている。抱き寄せたかったが、相手はプロだ。下手な動きは禁物だった。ダンもそれを察していたのだろう、隠れたままだった。
その時、村兵の背後の空から音もなく降下してくる飛翔体があった。断続的に琴浦町の花火に照らされて、光を点滅させているように見える。飛行というより落下に近いような感じで、もし搭乗者がいれば危険だと思った。
僕たちの視線の動きで村兵もそれに気付いたようだ。シュウが最初に振り向こうとし、同じく他の三名もそれに倣おうとして集中力が散漫になり少し不安定な体勢になった。
ダンはそれを見逃さなかった。茂みから弾丸のように跳躍すると空中で巨大化し、体を捻って全身で四人に体当たりを敢行した。最も右端にいたゴウはダンの後ろ脚で頭部を強打したらしく、そのまま倒れ動かなくなった。その隣にいたサムはある程度は直撃を回避できたようだが、腰を石に打ちつけたらしく地面にはいつくばっている。シュウとエリは村兵車に後頭部から激突し、尻もちをついていた。脳震盪を起こしているようだ。
ダンは体当たりの後、僕と碧の前に立った。身を呈して僕たちを守り抜く決意なのだろう。僕は碧の肩を抱いて、とにかく安心させようとした。
飛翔体がいよいよ近付き正体がハンググライダーだとわかった時、サムが顔をしかめて立ち上がり、振り向きざまに銃を構えようとした。僕は息を呑んだが、サムが体勢を整えるよりわずかに早く、搭乗者の伸ばした脚が彼の胸を蹴った。サムは肋骨をやられたらしく地べたで悶絶した。
ハンググライダーは、そのまま数メートル進んで着地した。搭乗者は素早く降りると暗視スコープらしきものを投げ捨てながら突進してくる。右手には銀色の棒を持っていたが、ひと振りすると刀ほどの長さになった。グレーのつなぎ服を着た元宮杏子だった。必死の形相で叫んでいる。
「油断しないで」
シュウとエリが意識を取り戻し、もぞもぞと立ち上がろうとしている。雅樂も全力で駆けだした。体勢を立て直されたら勝ち目はない。雅樂は中腰になっていたシュウの顎と腹に拳を続けざまに打ち込んだ。同時に元宮が、上半身が伸び切る直前のエリのみぞおちを銀色のチタン合金製の棒で突いた。シュウもエリも地面に突っ伏し動かなくなった。
雅樂も元宮も白い息を荒々しく吐いている。雅樂が元宮に声をかけた。
「危ないから来るなと言ったのに。それにしても上昇気流がないのに、よく飛べたね」
元宮は笑みを浮かべた。
「仙随山頂から落ち続けたという感じよ。あれ、そこにいるのは馬なの」
僕が犬だと教えると、彼女はこれ以上ないほど目を見開いた。
「言い伝えは本当だったのね。でもこれじゃマンションで飼えないわね」
その言葉に雅樂は微笑んだが、すぐに切迫した表情になった。
「平野さんは今すぐ、ここを離れて下さい。後始末は元宮と一緒にしますから。後日、必ず連絡します」
雅樂は村兵車からロープを探し出し、村兵たちの手脚を縛りはじめた。元宮は上着の内ポケットから通信機を取り出した。
「救急車を手配して警察に連絡するわ。県警の本部長には、父が話を通してくれています」
次いで、どうしていいか迷っている僕に向かって言う。
「平野さん、雅樂の言うとおりにして。ここにいると勾留されますよ。この女性は私たちが介抱します」
碧のことが心配でたまらなかったが、その言葉に従うのが賢明だと思った。報奨金は手にできなかったが、命があるだけで満足しようと自分を納得させた。これからのことは実家に戻ってからゆっくり考えるとしよう。ただ当面の問題に頭を悩ませていた。どうやって駅まで行くかだ。
するとダンが恭しく僕の前で伏せの姿勢になった。僕はその背にまたがると、再びマフラーを頸に巻かせてもらった。ダンが立ち上がると、碧はわずかに口を動かした。多分、さようならと言ったのだろう。返す言葉を探している内に、彼女は元宮に手を引かれ村兵車の中に入った。これで身体は凍える心配はない。しかし心はどうなのだろうか。
いきなりダンは走りだした。もう碧に会うことはないのだろう。しかし切なさに浸る間もなく村の出入り口のあたりで銃声が聞こえ、次いでシャッターが上がる音が耳に達した。その後すぐに車が走り去る気配がした。ためらいの気持ちが湧いてきたが、進むしかないのだと腹を決めた。出入り口に着くと半ば開いたシャッターの脇で、余分のノリコが膝をついて子供たちを抱きしめていた。
少し離れたところに山野瀬が倒れていた。それを見るなり僕の心臓は縮み上がり、転び落ちるようにダンから降りると嘔吐した。吐く物がなく胃液しか出ない。山野瀬の頭部は半分、吹き飛ばされていた。
タロウが気丈にも駆け寄ってきて、たどたどしく説明してくれた。それによると信士と錬堂教授がジープでやって来て、シャッターを開けるよう命じたが、山野瀬は村長の許可が必要だと突っぱねた。押し問答が続き、ついに逆上した信士が発砲したのだという。
その後、信士はハルコに猟銃を突きつけたので、ノリコとタロウは仕方なくシャッターを巻き上げた。半ば上がったところで僕とダンの接近に気付き、ジープを急発進させたようだ。もし僕とダンが少しでも遅れて到着していけば、タロウたちも撃たれたかもしれない。本当に寒気が走った。
タロウが悔しそうに言った。
「ハルコが殴られた」
月の光に、目の周りが腫れ上がっているハルコの顔が浮かんだ。行きがけの駄賃とばかりに信士が手を出したのだ。
僕は体内の血が沸騰し、さらに逆流するのを覚えた。奴らは何人を殺し、何人を傷つけ、何人の魂を踏みにじれば気が済むのだろう。何が凍眠国家だ。奴らには国家が、国民の信頼と連携の上にかろうじて成立していることがわからないのか。
大多数の人々を惨めさという底なしの穴に突き落とし、それを自分たちのせいであることを巧みに隠蔽し、凍てついた世界で自分たちだけがぬくぬくと安眠できると夢想する滑稽さに虫酸が走った。
奴らをこのまま逃がしてはならない。ついでにあの五千万円も取り返そう。そこから約束の一千万をもらうのだ。僕は居直っていた。僕はカネの亡者かもしれないが、権勢の亡者よりましだ。
ダンが静かにシャッターをくぐった。ノリコとハルコが恐怖に満ちた目でそれを見つめている。タロウは子供ながら剛毅さを崩さなかった。
「おじさん、あれは何なの」
「タロウ君が世話をした犬だよ。あんなに大きくなった」
ダンはタロウに向かって「くーん」と甘えた声を出し、次いで全身を震わせて吠えた。タロウは嬉しそうに手を振った。
「ありがとう、悪者をやっつけると言ってる」
僕はタロウに雅樂と合流するように告げると、ダンの背にまたがった。
と
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