45:12月31日 21時頃のこと ー人食い滝の誘いー

 ダンは勢いよく駆けだしたが、すぐに慎重な足運びとなった。急な下り坂で路面は凍りついている。とても軽やかな疾走はできない。ダンは爪をスパイク代わりにして歩んでいく。ジープが走り去って数分経つが、これではスピードが出せないだろう。

 東からの風で道の両側の森が、おぞましいほど騒いでいた。わずかに聞こえていた花火の音もかき消えてしまった。

 ようやく坂を下りきると道は大きく右に曲がり、急な上り坂となった。路面は荒れていた。きっとジープが悪戦苦闘したのだろう。しかし車輪の跡は氷が融けていた。そのせいでダンはそこをやすやすと駆け抜け、大蛇乢に至った。

 そこからは海が見える。大輪の花火が目に鮮やかだ。しかし見とれている暇はない。

 すぐに低い崖にはさまれた場所に入った。倒木に気を付けないといけないし、傾いた木の枝に僕が衝突するおそれもあった。ダンは速度を緩めて進む。しばらく行くと黒っぽい物が、風にあおられ大きく揺らいでいるのが目に入った。一瞬、僕は年がいもなく本気で妖怪ではないかと怯えた。ダンも脚を止め唸った。それでも警戒しながら進み、ダンは鼻先を近づけ匂いを嗅いだ。

 それはジープのほろだった。倒れかかった木の下を無理やり走り抜けようとして、幌が枝に絡まり剥ぎ取られてしまったのだ。僕が背中に突っ伏すと、ダンは姿勢を低くしてその下を抜けた。

 再び駆けだそうとしたその時、ダンは立ち止まり全身をこわばらせた。耳がレーダーのように動いている。何かを感知したのだ。ダンは僕に横顔を見せた。本当に進んで良いかどうか、意向を確認しているのだ。それはジープに迫っていることを意味していた。

 相手は凶暴で、しかも猟銃を持っている。闘うのは危険だ。何かで道を塞ぐか、障害物に乗り上げさせてジープを止め警察の到着を待とう。五千万円の入ったケースには手を触れないようにしよう。こちらが泥棒扱いされてしまう。報奨金の一千万円を合法的に得る方法を元宮弁護士に相談してみよう。

 頭の中を整理した上で、僕は深々と息を吸い込んだ。

「ダン、行こう」

 ダンも意を決したかのように走りだし、すぐに厳しい屈折が連続する難所に突入した。僕の耳に車のエンジン音が届いた。先ほどダンは、これを感知したのだ。

 けれども僕たちは急ぎ過ぎた。とある角を曲がると、突然ジープが視界に入った。当然、ジープのミラーに僕たちの姿が映らないはずはないが、信士は運転をしているのだから銃撃されることはないとたかをくくっていた。

 けれども読みははずれた。年齢からして錬堂教授に兵役経験があることを想定すべきだった。たちまち弾が飛んできた。

 ダンは跳躍し左側の崖の上に逃れた。僕は胸を撫で下ろし、ダンの背中に吸い付くように伏せた。そうしないと木の枝で顔が傷つきそうだ。ダンは木の間を左右に巧みにステップを踏みながら進んでいく。

 ここなら狙われることはないと気が緩みかけた時、再び立て続けに銃声が轟いた。弾はすぐ傍をかすめたようだ。ダンの吐く白い息を標的にしているのだろうか。僕は茫然自失となっていた。

「ダン、止まろう」

 ダンも危険だと判断したようだ。いったん追走を止め、左手の獣道に入った。もはや僕は方向感覚を失くしていたが、しばらくして屈折した道の終点にあたる崖の上にたどり着いた。このあたりからは積雪はない。

 ダンはそこで静止した。すぐ下にジープが止まっているらしい。信士の大声が聞える。場面に応じた発声ができないのかと呆れてしまった。

「チェーンを外したら、親父、運転を代わってくれ」

 僕は驚いた。信士の他には錬堂教授しかいないはずだ。彼は信士の父親なのか。

 錬堂教授は難色を示したようだが、信士は譲らなかった。

「ここからは運転は楽だ。親父の腕でも行ける。化け犬が来たら俺が仕留める」

 ジープが発進すると、ダンは僕が制止する間もなく崖を駆け下り、前に立った。錬堂教授は奇声を上げ急ブレーキをかけた。衝突すると目を閉じた瞬間、ダンは宙に舞い上がりジープの後ろに下り立った。

 すぐに加速を始めたジープをダンは追走する。信士が振り向きざまに発砲してきたが、ダンは身をよじって凶弾から逃れ、左側の崖に跳びつくと体を傾けたまま駆けだした。僕は無我夢中でしがみついているしかない。信士はなおも二発撃ってきたが、ダンは回避するまでもなかった。未舗装の道なので車体は上下に大きく揺れている。いかに名手といえど狙いを定めるのが難しいだろう。

 ドーン、ドーンと花火の音がひときわ大きく聞こえはじめた。もう大詰めに入ったのだろう。高い夜空に次々と大輪が開く。その度に空がほのかに明るくなる。遠くの風景が、一瞬だけ目に飛び込んでくる。残像のせいで、まるで夢魔の支配する異世界にいるようだ。

 右手に琴浦町の色とりどりの屋根が、ぱっと見えた。以前まえに見た、車で空中に飛び出す夢が脳裏に閃く。それはこれから起こることの予兆ではないか。これから誰かが、どこかに落ちていくのだ。僕が落ちていくのだろうか。しかし不思議と恐怖は感じなかった。

 信士が弾込めを始めると、またダンは道に戻った。恐ろしいほど人間の行動の意味が読める犬だ。今なら攻撃されないとわかっているのだ。

 信士は弾の装填が終わると、荷台に移動して右膝をつき姿勢を安定させた。とにかく一撃で決着させるぞという気迫が、ここまで伝わってくる。僕は狼狽していたが、ダンは構わず突き進む。救急車のサイレンの音が聞こえてきたが、信士に動じる気配はない。

 ジープは、碧が教えてくれた魔の分岐点に差しかかっていた。信士の構えが定まったと同時に、左の道から救急車が下りかかってきた。その途端、ジープは柘榴滝に向かう右の道へと曲がった。

 信士の絶叫が聞えたような気がした。

「違うぞ、違う」

 ダンも右の道に入り、猛然と突進する。

 ジープはブレーキをかけたが、深く積もった落葉に車輪が空回りし、そのまま滝に向かってそりのように滑っていく。信士は助手席に飛び込んで札束の詰まったケースを持ち、滝の上に伸びる木の枝を目がけ飛んだ。同時にジープは錬堂教授とともに裂け目に落ちていった。

 信士は枝をつかみかけたが、ケースの重みに負けてしまった。落下を始める直前、ダンは信士を目がけ低い姿勢で跳んだ。僕は目を閉じた。ほんの一瞬、滝の音が地鳴りのように耳に達した。

 着地した気配に目を開けると、ダンは滝を跳び越えたのだとわかった。振り返ると何台もの警察車両が、続々と段々村を目指していた。信士と錬堂教授の安否が気になったが、とても滝壺を覗くことなどできそうになかった。

 ダンは立ち止まったまま激しく呼吸していた。僕はダンの背から降り手綱代わりのマフラーを外すと、脇腹をさすってあげた。ふとダンの前にケースが転がっているのに気付く。信士が落下する間際にダンが咥え去ったのだろう。

 ケースを拾い上げるとダンは元の大きさに戻った。僕を嬉しそうに見上げると、ゆっくり歩み出した。道案内をしてくれるらしい。全身の筋肉に震えが走っていたが、時間を無駄にはできない。段々村から一刻も早く、できるだけ遠くに離れたい一心だった。そのくせ碧には近くにいてほしいと思っていたが、どうしようもない。

 ダンに従って灌木をかきわけながら這うようにして下っていくと、畑の畦道が現れた。前方に人家の灯りが見える。ダンは歩みを止め、僕を見上げた。ここでお別れだとその眼が物語っていた。

 僕は身体を屈め、ダンの頭を撫でた。

「本当にありがとう。もう会えないのか」

 ダンは戸惑ったように鼻声を出した。僕は気付いた。もし今後、会えるとしたら僕が危機に陥った時だと。だから会えない方がいいのだとダンは告げていた。別れを惜しむ間もなくダンは身を翻し、背後の森に消えた。僕はケースを抱えて、しばらく闇の中にたたずんだ。

 いつの間にか花火大会も終わったようだ。



 


 

 

 



 

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