46:1991年1月のこと -故郷への帰還ー

 とぼとぼと歩いて児島駅を目指すことにした。麓近くの神社に寄って、二名の者が柘榴滝に落ちたと匿名で警察に通報した。その後、境内で振る舞いのうどんと甘酒をいただき社の隅でしばし眠った。目覚めると、すでに新しい年となっていて境内はお参りする人々で賑わっていた。なぜかいたたまれなくなり、僕はその場を離れた。

 児島駅には四時ごろ着いた。まだ外は真っ暗だったが、駅舎は初詣に行こうとする客で混雑していた。振袖姿を見ると碧を思い出し、心が痛んだ。待合室に座っていると近くで男の声がした。

「昨日の夜、段々で暴力団同士の決闘があったらしいよ」

「今時、決闘とはね。それでサイレンがうるさかったのか」

 世間ではそういうことになっているらしい。もしかしたら公にもそれで通すつもりなのかもしれないと思った。あまりに異様な事件なので、ありのままを公表する訳にはいかないだろう。

 僕は五千万円が入ったケースの扱いに悩んでいた。このまま持ち去れば犯罪者だし、警察に行っても事情の説明ができない。貧乏ゆすりをしていると、不意に目の前に茶色のスーツを着た五十代らしき男が立った。

「平野真守さんですね。おそれいりますが、ご同行願えませんか」

 僕は刑事だと思い込んだ。どう切り抜けようか焦ったが、頭はさっぱり働かない。大人しく従うしかなかった。駅舎の隅で男は立ち止まり名刺を出した。「琴海きんかいファイナンス株式会社 本社総務部参与」との肩書だった。その会社は元宮の父親がオーナーだったことを思い出し、僕は安堵した。男もほっとした表情になった。

「お会いできて良かった。もしや他所に行かれていたらどうしようかと気をもんでいたところです。お嬢さん、いや失礼、元宮弁護士からあなたの無事を確かめるように言われましてね」

 僕は、男にケースと御田島村長と交わした雇用契約書を差し出した。

「元宮弁護士にお渡し下さい。僕を助けてくれたものが取り返したと言えば、わかるはずです」

「大事な物のようですね。間違いなく仰せのとおりにいたします」

 男は丁寧に一礼して立ち去った。


 始発の岡山行に乗った。その後は伯備線、山陰本線と乗り継いで故郷を目指した。実家には昼前に着いた。妹が晴れ着姿ではしゃいでいた。皆に見せたくて仕方なかったようだ。両親からはいろいろ訊かれたり、小言のようなことを言われたが聞き流した。

 トイレは水洗になっていた。友だちが来たら恥ずかしいから直してと妹が駄々をこねたらしい。恋人ができたのかもしれないなと僕は思った。

 段々村から年末に送った荷物は無事に到着していた。箱を開けると、一番上にボールペンで走り書きした運送会社のメモ用紙があった。

「勝手に開けてごめんなさい。もう会えないのでしょうね。楽しかった。さようなら。あなたが好きでした。アオイ」

 胸が詰まり、不覚にも涙がこぼれた。会いたいという思いが一気に湧き上がったが、それでどうするつもりなのかと自分に問いかけた。碧に対する自分の態度は固まっていない。まずは就職先を探し、債務返済の目処を付けることだ。

 次第に心が落ち着いてくると、報奨金の一千万円は幻だったような気がしてきた。それどころか段々村での出来事すべてが、夢だったように思えた。新聞やテレビが何も報じないのは、実は何もなかったからではないか。

 三が日を過ぎても、雅樂や元宮からは電話の一本もなかった。自分から連絡を取るのはためらわれた。厄介事に巻き込まれたくなかったのはもちろんだが、それ以上に二人が実在の人物かどうか確信が持てなくなっていた。

 仮に実在しているにしても、遠すぎる世界に住む、僕とは異なる人間だ。本来、関わることなど許されない。僕は日本の片隅で、宛がい扶持を受け取るために割り当てられた役割をこなすだけの一生を送るのだろう。理不尽な扱いをされようと、すべて自分が招き寄せたことだという罪の意識に心身を縛められ、邪なことや醜いものをも素直に受け容れ、何もかもを自然の摂理だと考えるようになるのだろう。

 そこで慌てて頭を横に振った。それは段々村の民、ひいては凍眠国家の民になりきることだ。自分が、自分で仕掛けさせられた罠にはまってはならない。

 ダンと共に駆けたことが脳裏に鮮やかによみがえってきた。いちばんあり得ないことが、僕には最も信じられることになっていた。

 その夜、僕は夢を見た。山を越え海を渡り、強い風の吹きすさぶ中、青空の下にどこまでも広がる草原を僕はダンとともに走り抜けていた。


 中旬のある日、雅樂から電話がかかってきた。あの事件以降、固有の業務に加え警察の事情聴取や実況見分の立会が続き、まったく余裕がなかったという。元宮杏子も同様らしい。

「ただ、ご安心下さい。平野さんの名は私も元宮も碧さんも出していませんから。仮に他の生存者が口にしても、あなたに捜査の手が及んだり出頭を求められることはありません。県警本部長が握りつぶしてくれます。何でも元宮の御父上が、昔お世話をした方のようですから」

 雅樂はさらりと言った。裏の事情が興味深かったが、さすがに訊けなかった。碧の他に生存者がいたことは救いだったが、雅樂は名前を把握していなかった。

 すぐに雅樂は本題に入った。

「近日中に、あなたの口座に報奨金一千万円が振り込まれるはずです。確定申告を忘れないで下さいね」

 思わぬ知らせだった。例の五千万円は、東京の後ろ暗いところのある土地成金が御田島村長宛に支払ったのだという。元宮が、僕の雇用契約書を持って遺族と直談判に及んだそうだ。遺族は相続放棄するしかないだろうが、残りの四千万円はどうなるのだろう。しかし余計なことは耳にすべきでないと自制した。

 電話の最後に、信士と錬堂教授が滝壺に落ちた顛末を話した。二人の遺体は発見されておらず、行方不明扱いだという。僕が罪の意識を抱いていることが伝わったのだろう。雅樂は声を大にした。

「平野さんには責任はありません。自損事故です」

「でも追いかけて行った結果、そうなったんですよ」

「追いかけたのはダンでしょう。もちろんダンも無罪です。犬には刑法は適用されませんから」

 大真面目に言うと、雅樂は電話を切ろうとした。僕は慌てて錬堂教授と室見川信士が親子の可能性があると告げた。数秒間の沈黙の後、雅樂は「わかりました」とだけ答え受話器を置いた。

 翌日には一千万円が口座にあった。早速、関西を回って全額を返済した。先方には振込でいいと言われたが、きちんと目の前で作成された領収書が欲しかった。このところ督促がないのが不思議だったが、どうも元宮が手を回してくれていたらしい。慌てて元宮に料金の支払いを申し出たが、不要だと断られた。

 ふと飯沢由衣子の実家を見ようと思い立った。悪趣味だとわかっていたし彼女に未練はなかったが、いつも自慢していた父親の会社がどれほどのものか確かめたかった。

 それは大津のはずれにある小さな板金屋だった。庭先で父親らしき白髪の男性とともに、資材を運んでいるジャージ姿の由衣子がいた。その姿は健気で優しく映った。僕も故郷で仕事を探そうと決めた。

 後日になるが彼女の勤務していた会社は、年末に倒産したことを知った。


 


 

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