33:12月28日 日中のこと -人食い滝と碧の誘惑ー

 大蛇乢おろちだわを過ぎると、道の両側は低い崖になった。密生した樹木が道に覆いかぶさらんばかりだ。緩やかな下り坂が、まるで大蛇のようにうねうねと曲がりながら続く。路面の状態は、さらに悪くなった。

「このあたり、木が倒れてくることがあるの。注意しなければ」

「わかった。命を預けるよ」

 碧は笑った。

「運転席が高いから遠くまで見える。任せて」

「いきなり真上から倒れてくるかもしれないよ」

「トラックの屋根は補強してあるそうよ」

 碧は、また笑った。本当に楽しそうな笑顔だった。段々村では見たことのないかおだった。

 やがて道はやや平坦になったが、厳しい屈折が何度も連続する難所に差しかかった。僕は方向感覚を失くしそうだったが、気が付くと盆地の外に出ていた。左手には段々村を取り囲む崖がそびえ立ち、そこに巻きつくように道が伸びている。右手には空間が広がっているが、ガードレールはない。その下には、琴浦町の色とりどりの家の屋根が小さく見えた。

 しばし走ると碧は停車して、ひと息ついた。疲れたのかと思ったが、そうではないと言う。

「ここが、いちばん危ない場所なの」

「そうだね。左からは岩が落ちてきそうだし、右にはこっちが落ちそうだ」

「それもあるけど、ほら見て」

 碧は数メートル先を指差した。そこで道は二手に分かれている。左の道は山肌に沿って上っている。道幅も狭まっているようだ。右の道は町に向かって下っている。

「クイズです。どっちに行けばいいでしょうか」

「そりゃ、右だろう」

「確かめに行きましょ」

 トラックから一歩、踏み出すと滝の音が聞えた。碧とともに、深い木立に包まれた右の道を歩む。落葉で埋まった急な下り坂が二十メートルほど続いた先に、小さな看板が立てられていた。「この先 柘榴滝ざくろたき 危険」とだけ書いてある。

 碧はそこで立ち止まったが、僕はさらに進もうとした。

「もう行っちゃだめ。滑って落ちてしまう」

 碧は大声を上げた。数歩先で道は途切れ、幅五メートルほどの大地の裂け目があった。反対側の深い森に幻惑され、地続きと錯覚してしまいそうだ。僕たちの足元のすぐ下が滝口で、滝壺までは三十メートルは落差があるという。地底湖が実際に存在するならば、そこから水は発しているのだろうか。

 僕は身震いしていた。

「まさに罠だね」

 碧によると大昔、段々村を襲ってきた敵を、ここに追い詰めて落としたのだという。

「人食い滝と呼ぶ人もいる。慣れていても、何となくこちらの道に行ってしまいそうになるの。だから手前でいったん休憩して落ち着くようにしている」

「死人が呼んでいるのかな」

「恐ろしいことを言わないで。でも実は私もそんな気がするの」

 僕たちはトラックに乗り込み、左の道に向かった。急勾配の坂を上りきると、ようやく舗装された道路が現れた。両側は田畑で、なだらかに下った先に琴浦町の家並みが見え、その向こうに海が輝いている。

「ひどい道だったな。歩いて登校していたなんて信じられない」

「通学は、大蛇乢の脇から人がやっと通れる近道があったの。今は草ぼうぼうで入り口がわからなくなっているけど。帰りは山登りをしているみたいだった」

 ほどなく琴浦町の中心部に着いた。そこには工場が立ち並び、かすかに染料の匂いが漂っている。学生服や作業服、スポーツウェアの有力な生産地とのことだ。もちろん公衆電話もあり、雅樂に連絡を取ることもできたが、碧に迷惑を及ぼしてはいけないので近寄ることも避けた。

 まず碧は郵便局に行き、それから町役場と銀行を巡った。銀行では相当な時間を費やした。彼女は、かなり疲れたようで愚痴をこぼした。

「他人の用事をこなすなんて大変」

 僕は思った。久吾屋未明が娘に仕事を譲ったのは、無免許で事故を起こしたせいだけではなく、機転が利かない上にいろいろな煩雑な手続きに対応できなくなったせいではないか。

 あちこち回っている内に昼食時になった。その日はよく晴れていたが、空気は冷たかった。そのため海辺の道端に停めたトラックの中で、碧の手作り弁当を食べた。彼女は心配そうに僕の顔を窺う。

「とてもおいしいよ」

 僕が声をかけると、その表情が太陽のように明るくなった。

 食事を済ますと、しばし二人で海を眺めた。荒々しい日本海と比べれば、瀬戸内海は鏡のように平穏だった。不思議な形の島が浮かび、絶え間なく大小さまざまな船が通り過ぎていく。

 僕は何気なく言った。

「きれいだね」

「そうね。悲しくなるほど、きれい」

 その口調の弱々しさには、胸が詰まる思いがした。何か言おうとしたが言葉にならない。何を言っても彼女を傷つけそうな気がしていた。

 碧は、子供の頃から使っているという水筒から冷めきった湯を口にして、大判のノートを広げた。

「ここに書いてある物を今日中に揃えないといけない。急がないと日が暮れちゃう」

 商店街のはずれにトラックを停めて、台車を下ろした。僕は荷物運びを買ってでた。

 商店街は思いのほか活気があった。さまざまな年代の女性たちが、大きな袋をいくつも提げて狭い道を足早に行き交っている。どの店からも威勢のいい呼び込みの声が聞こえる。「歳末大売り出し」と白く染め抜かれた赤い幟が、あちこちで揺れている。

 僕たちは人混みをかき分け、何軒もの店や問屋を小走りで回った。新巻鮭や蜜柑など定番の物もいっぱい入手したが、とにかく酒類の多さには腰が抜けた。店員にも手伝ってもらいトラックまで何往復もした。

 冬なのに汗だくになったが、不思議と疲労感はなかった。碧と一緒に動いているのが快く、この時間がずっと続けばいいとすら思えた。

 夕方、ようやく作業が終わった。僕たちはトラックの荷台にもたれて、ひと息ついた。温かい缶入りのカフェオレをおごってあげると、碧は子供のようにはしゃいだ。

「初めて飲むの。甘くておいしい」

 缶飲料を購入するゆとりすらないのだろうか。碧のこれからの人生を想像すると、胸が痛くなった。

 碧は僕を見つめ、小刻みに震えているようだ。

「ねえ、クリスマスには世間の人は何をして過ごすの」

「ケーキを食べたり、ゲームをしたり、パーティをしたり、そんなところだね」

「そうじゃなくて、例えば男の人と女の人が二人きりで過ごすとしたら」

 僕は、どぎまぎして碧を見た。その頬は、服の色よりもさらにピンクに染まっていた。

「そうだな。夜景を眺めながらイタリア料理を食べて、その後はディスコで踊って」

 それ以上は口にはできなかった。碧は吐息がかかるほどの近さまで、すがりつくように身を寄せてくる。

「今晩はお父さんもお母さんも帰ってこない。普通の人と同じことをしてみたい。だって平野さん、もうすぐいなくなっちゃうんだから」



 


 



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