32:12月28日 朝のこと ー碧とのドライブー

 クリスマスになったが、村にはそれらしい雰囲気はない。碧は言う。

「クリスマスはしないの。それが村の決まり。楽しいことをしてはいけないの。どの家も余裕なんてないし」

 飯沢由衣子と過ごしたクリスマスイブが、はるか昔のことに思えた。

 その週は残務整理の気分で雅樂への六番目の報告書をだらだらと書いたり、私物の片付けなどをして過ごした。

 金曜日の定例会議は中止になった。特に議題がないので当然だろう。その代わり御田島村長に呼び出された。

「平野君、外へ出てみないか」

 突然に意外な問いかけをされたので、僕は返答に困った。

「いやあ、もう少しで出られますから」

 曖昧な返事しかできなくなっていることに唖然とした。長い間、村外に出ることを巧みに阻まれていると、いわば自発的に外に出る意欲を失っていることに気付いたのだ。村民が頑なに村に留まっている理由が、自分でもよくわかった。以前まえにも考えたことだが、人間を巧妙にある一定の方向に誘導すると、自ずとそこに進み、しかもそれを自分の意思で行なったと勘違いするものだ。

 僕がしばし考えに耽っていたので、村長は訝しんだようだ。

「どうした。元気がないようだが」

 僕は我に返った。

「申し訳ございません。何かご用命がございますか」

 その日は村民の正月準備のために、久吾屋が総出で琴浦町に買い出しや仕入れに行く予定だったが、夫妻に急用ができたという。

「仕立屋静作が風邪で寝込んだ。石切屋の三兄弟は琴浦町そとの請負仕事に手間取って当面、帰れそうにない。人手が足らないので、年末の祭りの準備が滞ってしまっている」

 そこで久吾屋夫婦に応援を命じたが、今度は買い出しと仕入れに支障が出る。碧ひとりでは物資の調達や運搬が難しいというのだ。

「今回の荷物は大量だし、重い物が多いからな。信士に手伝わせるつもりだったが、碧が珍しく駄々をこねた。絶対に厭だと。仕方がないから若手の君にお願いするよ」

 僕は張り切って、わかりましたと答えた。

 しばらくして役場を訪れた碧が、泣きそうな顔で村長に土下座せんばかりに頭を下げている。村長に口答えをし、信士を同行させろとの言いつけに背いたことを詫びているのだった。村長は、むしろ彼女を宥めているように見えた。

 彼女は、ほっとした表情で僕の傍に寄ってきた。

「良かった。村長さん、怒ってなかった」

 彼女はいつものくすんだ色ではなく、パステルピンクの作業着を着ていた。

「眩しい、よ」

 僕が率直に言うと、彼女は恥ずかしそうに答えた。

「これが私の晴れ着。年末とお正月だけ着るの」

 役場前に停めてある車を見て、僕はびっくりした。いつもの軽ワゴン車ではなく、村長に借りたというアルミバンの四トントラックだった。

「こんなにでかいのに乗るのか。僕が代わりに運転しようか」

 碧は事も無げに言った。

「私がするわ。慣れていないと、途中が本当に危ないの」

 碧は颯爽と運転席に乗り込んだ。僕が助手席に座るとトラックは軽やかに発進したが、すぐに村の出入り口で停まった。山野瀬が大声で言う。

「久吾屋さん、隣の人をきちんと監督しておいて下さいよ。村長が外出をよく許したものだ」

 その毒々しい物言いに腹が立ったが、顔には出さず丁寧に会釈した。

「山野瀬巡査さん、お役目ご苦労さまです」

 彼は横を向いたが、相好を崩しているのが丸わかりだった。

 碧は、郵便物を持ち運ぶ帆布の袋を山野瀬に渡した。差出人名義が御田島村長の封書と小包が入っているだけなので、検閲はなかった。

 山野瀬が厳かに三度、警笛を吹き鳴らした。余分たちが小屋から出てきて、交番の裏手に走る。か弱い力を合わせシャッターを巻き上げるのだ。その姿に、僕は名状しがたい悲しさを覚えていた。

 シャッターが上がると、目の前には鬱蒼とした森が広がっていた。木々の間を縫って未舗装の急な下り坂が続いている。ゆっくりとトラックは走りだした。道幅はダンプカーがようやく通れるほどしかない。

「なるほど。いい道とは言えないな」

 碧はうなずいた。

「ここを上る時は、ローギアじゃないとだめなの」

「地質調査の人は、よく重機を持ち込めたもんだ。運転の天才だな」

 五分ほどのろのろと進むと、突然、道は右に大きく曲がり急な上り坂となった。両側は高い崖だ。

「不自然なカーブだね」

「ここは大昔に蛇が通ってできたって」

「でっかい蛇だな」

「そう。長さが二百メートル、太さが十メートルもあったそうよ」

 雅樂からの情報を信じるならば、湖の決壊によってできた地形の跡なのだろう。しかし碧は、その大蛇が実在したと信じているようだった。

「今でも、この道幅を超える長さの蛇が出るのよ」

「嘘だろ。四メートルもあるのか」

「嘘じゃない。私、たまに見るんだもの」

 僕はぞっとした。あながち誇張ではない気がしてきた。しばらくしてトラックは道を上りつめ、下りに入りかかる。左手の崖がいったん途切れ、木立を透かして穏やかな海が遠望できた。この小さな峠は大蛇乢おろちだわと呼ばれているのだそうだ。







 





 

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