5:その翌週からのこと -謎の女性弁護士の正体ー
週明け、仕事帰りに雅樂と喫茶店で会った。僕の採用は、即決されたという。
「御田島村長はせわしない方ですから、事前の挨拶など不要とのことです。履歴書だけ送って、先方から連絡があるまでお待ち下さい」
かえって僕は不安になったが、雅樂は自信たっぷりに言う。
「それだけ平野さんが、これ以上ないほど適任だということです」
「そうならいいのですが」
雅樂は意図してかどうかは定かではないが、話題を変えてきた。
「ところで平野さんの車ですが、非常に気に入りました。私に譲っていただけませんか。もちろん残っているローンも私が払います」
「でも車はお持ちではありませんか」
雅樂は照れもせず言う。
「元宮へのプレゼントですよ。彼女、休日にはバイクを飛ばしているんですが危なくて見ていられません。車に乗ってもらった方がましです。手続きは私たちに一任いただければ結構です」
僕は承諾した。これでかなり負担が減ったことになる。これは雅樂の僕に対する厚意かと思ったが、どうもそうではなさそうだった。二人は特別な関係なのだろうか。不意に妄想が浮かんだ。それは淫らさを感じさせない、透明で美しいイメージだった。
僕はあの女性弁護士について訊いてみた。雅樂は特に隠し立てをする気はないようだ。
「元宮は本当に有能です。在学中に司法試験に合格したほどです。ただし、いわゆる正義派ではありません。やくざ屋さんや悪徳企業ともお付き合いしています」
僕は冗談めかして言った。
「では、うちの会社もそういう部類なんでしょうね」
雅樂は笑った。
「そのようなことはありません。ただ不動産には厄介な方々が絡んでいることが多いですからね。現在の彼女の案件については申し上げられませんが、いずれ明らかになる日が来るでしょう」
「しかし美人で若いのに、危なそうなお仕事を引き受けていらっしゃるんですね」
「彼女自身は法律に基づいてクライアントの便宜を図っているだけで、あくどいところは微塵もありませんが、生まれ育ちがそういった方面を志向させるのでしょう」
元宮杏子の父親は、琴浦町に本社を置く
「お父さんは昔、密貿易で儲けたと聞いています。もちろん今は足を洗っていらっしゃいますが、いまだにその筋と警察に一目置かれているようです」
雅樂と境遇が似ているなと思った。二人とも僕にとっては異世界の住人だった。
雅樂は悪戯っぽく付け加えた。
「ああ見えて元宮は剣道三段です。いつも木刀を持ち歩いていますよ。と言ってもチタン合金製ですが」
「目にしたことはないですね。背中にくくりつけているんですか」
雅樂は笑った。
「伸縮できるタイプのものをバッグに忍ばせています」
「よくご存知ですね」
僕のからかいを雅樂は平然と受け流し、おどけた口振りで言った。
「こういう話をしたことは、どうかご内密に。でないと元宮が空から攻撃してくるかもしれません。彼女はハンググライダーの上級者でもあるのです」
会社に退職を申し出ると、呆気なく了承された。偶然にも同じ日に優秀な先輩が、辞表を提出していた。その人は異業種に転職するらしい。この会社も長くは保たないのかもしれない。雅樂の言ったことが、真実味をもって迫ってきた。
退職日は月末だったが、その数日前、段々村から書類一式が郵送されてきた。雇用条件は雅樂の説明どおりだった。若干の生活用品と着替え以外は必要なさそうだ。
車の持ち込みは禁止とあった。村周辺の道路事情が極めて悪く、不慣れな者が運転すると危険だからという理由だ。ちょっとひっかかったが、車は手放したので関係ないと思った。
9月30日に岡山駅まで迎えに来てくれるという。恐縮したが、その後の文言にはびっくりした。夜9時に駅前の桃太郎像の前で、カップ酒を飲みながら待っていてほしいとのことだった。
これでは、まるで路上生活者である。しかし僕を一目で特定するには有効かもしれないと思い直した。
それから二日ほどして雅樂から連絡があった。僕に伝えたいことがあるという。
早速、僕は雅樂の自宅を再訪した。
彼は書棚から一冊の本を取り出すと、僕の前に置いた。その本は地味な装丁だったが、電話帳ほどの厚みがあり英語で書かれていた。表紙には「The Treatise of The Freezing State」とある。
雅樂は戸惑っている僕の顔を見つめた。
「タイトルは凍眠国家論、と訳すのがよろしいでしょう。ご存知ですか」
僕は知らないと答えた。
「ご存知なくて当然です。ほとんどの国民が知らないはずです。一般に販売されていませんし、そもそも著者が許可しないので翻訳すらされていません。限られた人だけが読み、理解すればいいという考えで書かれたものですから」
著者は、黎都大学政治哲学部の学部長で
「どんな内容なんですか」
雅樂の表情が翳った。
「奇怪な内容です。これをどのように評価するかは、各人の価値観によるでしょう。いや、正確には価値観ではなく良識でしょうね」
雅樂は「凍眠国家論」を要約して説いてくれた。
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