4:土曜日のこと -謎の人物が語る幻の村ー
雅樂の居宅は、尼崎のはずれにある二階建てのアパートだった。古びていて築四十年といったところだろうか。あたりは治安が悪そうだった。車は近くの空き地に停めたが、悪戯されないかと不安になっていた。
僕は高級マンションを想像していたので拍子抜けしつつ、一階の端のドアを叩くと、すぐに中に招き入れられた。驚いたことに、そこは三部屋ぶち抜きのワンルームに改装されていた。
床には白い絨毯が敷き詰められており、その上に小さな食卓や、大きなパソコンが置かれたデスクと本が詰まった書棚、電子ピアノなどがきれいに配置されていた。カーテンで仕切られた左手奥がベッドスペースらしい。
窓はなかった。僕が怪訝そうにしていると、雅樂は言った。
「一年は住むので、自分好みにしてみました。完全防音です。私が出れば、このアパートはすぐに取り壊されるはずです」
僕たちは床に置かれたクッションに腰を下ろした。雅樂はドイツ産の黒ビールを出してくれた。
「車で来たので遠慮します」
「大丈夫。運転代行を頼んであげます」
その言葉に甘えることにし、ビールを口に含んだ。
「これはおいしいですね」
「それは良かった。さて本題に入りましょう。この度、平野さんにご紹介するのは、この村です」
雅樂は岡山県の地図を開き、その南端の児島半島の中心部を指差していた。そこには黒丸が打たれ「
「
「そこの臨時職員になるんですか。村がないのに、意味不明じゃありませんか」
「合併は段々村にとって望ましいものではなかったようです。反発の念を込めて、それ以降もいわば村ごっこを続けているのです」
「つまり遊びでやっているのですか」
「傍から見ればそうでしょうが、中の人たちは大真面目なのです。互いに村長、助役などと呼び合うなど、独立した自治体としての意識を持ち続けているようです。ですから平野さんも、それに倣うようにして下さい」
僕は、そこで
。要するに村長と称する人間の使用人になるということだ。うんざりしたが、雅樂は僕の気持ちを斟酌する気はないようだった。
「御田島村長の悲願は、段々村の独立です。しかし村には産業がないも同然、そこで村の開発計画を策定する人材を求めていらっしゃいます」
「それならリゾート開発などではなく、農業の振興とか、もっと地道な方策があるのではないでしょうか」
雅樂は、彼にしては珍しく皮肉な口調になった。
「村長は、このところの経済状況が今後もますます昂進していくとお考えです。それにあの方は、大言壮語がお好みのようでしてね」
要するに誇大妄想家、あるいはほら吹きということか。
雅樂は僕に目配せをした。
「実現可能性はさておき、似たようなお方の嗜好に合うような案を提示して差し上げれば、村長の人脈の中には飛びつく方もいるでしょう。それで十分な成果なのですから、あなたは報奨金を手にすればよろしいのです。いざとなれば、私が手助けします」
心強い言葉だった。それにしても村長の人脈とは何だろう。
「大学の同窓会です。御田島村長は黎都大学経済学部の卒業生でしてね。そこの出身者には、あぶく銭を手にして浮かれている方々が大勢いらっしゃいますから」
僕は思い切って訊いた。
「雅樂さんも黎都大学の出身ですよね。地元の友人から聞きました。御田島村長とは、同窓会で知り合われたのですか」
「いいえ、私が行った政治哲学部は、他の学部とはほぼ没交渉でした。キャンパスも教養課程も別でした」
僕にも黎都大学政治哲学部は何か特別な使命を有した、究極のエリート養成機関だと想像できた。もしかしたら政治哲学部という存在を偽装するために、加えてそれを財政面その他で支援するためだけに他の学部はあるのかもしれないとも思えた。
雅樂はさらりと言った。
「私は昨年まで証券会社に勤務していました。年末に岡山でセミナーを開催した際に、御田島村長と出会いました。出身大学が同じとわかると、村への投資の斡旋を迫られましたが受け流しました。それなら個人的に人材だけでも紹介してほしいと言われ、ようやく依頼を実現できた次第です」
「いいタイミングでお辞めになったんですね」
雅樂は事も無げに言った。
「株が暴落することはわかっていましたが、最初から三年で退職するつもりでした。大学を卒業してスポーツ新聞社と食品スーパーに、それぞれ三年ずつ勤めました。新聞社では風俗やギャンブルを担当していました。スーパーでは市場に通っていました」
僕は唖然とした。富豪の出身で神童めいた人物にしては、そぐわない職場ばかりである。
「三年ごとに転職というのは、どんな理由ですか」
雅樂は鷹揚に答えた。
「私には特にしたい仕事がないのです。ですから三年もすると飽きてきますからね。それにいろいろな経験をして、世の中の実態について肌で理解したいのです」
雅樂はそこで一息ついた。
「それに私は、あちこち転々とすることで身を隠したいと思っているのです」
奇妙な理屈だったが、そういう人もいるのかもしれないと僕は軽く聞き流した。
僕からの質問が途切れると、雅樂は早速、運転代行を手配してくれた。
「今日はこのあたりでお開きにしましょう。お車までお送りします」
彼と共に車まで行くと、そこには特攻服を着た三人の若者がたむろしていた。
「おい、おっさん。いい車に乗ってるな。カネ持ちだろ。カネ、出せよ」
僕たちは無視しようとしたが、すぐに取り囲まれてしまった。
「おい、返事くらいしろや」
僕の身体は硬直した。雅樂の顔を一瞥したが、いつもどおり落ち着いた表情だ。
どう切り抜けるつもりなのだろう。
三人組の手が僕たちの肩にかかろうとした瞬間、信じられないことが起こった。雅樂は目にも止まらぬ速さで動いたかと思うと、三人とも倒れていた。皆、呻きながら腹を押さえ、ひとりの顔面は血だらけになっている。
「下手でごめんなさいね。鼻を狙う気はなかったのですが」
雅樂は本気で言っているようなので、僕はかえって身震いした。
ひとりが虫のように地べたを這いずりながら、悪態をついてきた。雅樂は涼しい顔で説き伏せるように言う。
「暴力団の方とお知り合いなら、どなたかに元宮杏子という弁護士について訊ねてみることをお勧めします。私の仕事仲間ですが、その方のお世話もしていると思いますよ」
そして、しげしげと僕の車を見て言った。
「なるほど。いい車ですね」
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