8:9月30日のこと -段々村への旅立ちー

 不要な物を処分し、段々村へ荷物を送り、各種の手続きをするなどで9月最終週は、あっという間に過ぎていった。けれども雅樂のおかげで車のローンからは解放されたので、少しは肩の荷が下りた心もちだった。

 9月30日の昼過ぎに下りの各駅停車に乗った。急ぐ必要はなかったし、できるだけ節約しようと思ったのだ。紺色のスーツを着て、背には高校の時から使っているナップサックを負っていた。もう格好に気を使うのが馬鹿馬鹿しくなっていた。

 乗り継ぎを重ね岡山駅に着いたら、午後8時を回っていた。僕はキヨスクでカップ酒を二本買って、駅舎から出た。日曜なので駅前広場は閑散としている。村からの要請どおり桃太郎像の前に立つと、風が出て来て肌寒さを感じた。

 こんな状況でカップ酒を飲んでいると、実にみじめな気分になってきた。消費者金融の澱んだ色のネオンサインが否応なく眼に入ってきて、胃が縮んだ。右手奥には交番の赤い灯が見えた。由衣子が警察を呼ぶと金切り声を上げたことを遠い昔の出来事のように思い出した。

 貨物列車がのろのろと通り過ぎていく音が、幻聴のように聞こえた。列車はどこに行くのだろうか。九州だろうか、四国だろうか、それとも機関庫に帰るのだろうか。

 ふと故郷の海沿いの道を思い出す。たった十年ほど前まで、そこを自転車で走っていたのだ。波飛沫を浴び車輪がよく錆びた。休みの度に、僕はそれをサンドペーパーできれいに磨いていた。

 あの傾いだ家は、今もそのままだ。両親は僕を進学させるため、家の修繕すらできなかった。なのに、その果てに僕は半ば壊れた姿で異郷にいる。あのまま自転車で海辺の道を駆けていた方が、幸福だったのではないか。

 正月から帰省していないことを悔いた。父に会いたくなってきた。口下手で面白味がなく、特に取柄もない男だ。けれども家族のことは思ってくれていたと今さらながら気付いた。

 小学生の頃、父はたまに大山だいせんに連れて行ってくれた。僕が馬に乗りたいとせがむと、父は乗馬体験コースに通わせてくれた。役に立たないことをさせてと母が小言を言うと、父は怒鳴ったそうだ。これくらいしか贅沢はさせてやれないのだから、黙っていろと。

 母にも、看護学校に通う妹にも会いたくなってきた。

「サニー」

 僕は思わず呼びかけていた。サニーとは、家で飼っていた雌の柴犬のことだ。僕が高校三年の時、親戚から譲り受けた。正月に帰省した時、ずっと臥せっていたが、仕事に戻ろうとする僕を見送ろうと立ち上がりかけ、そのまま力尽きた。フィラリアにやられていたのだ。僕は、しばし呆然と佇んでいた。

 母は悲しそうな顔で言った。

「もう犬は飼わないよ」

 我が家は昔から犬を飼っていたが、飼い方には気が回り切らず数年で死なせてしまっていた。物心ついた頃には、白い雌の日本スピッツがいた。それから黒っぽい雄の雑種の兄弟、タロとジロがやって来た。その後に飼った雌のパグのパピィは身体が弱く、すぐに死んだ。その後、雌の柴犬のチロがやって来て、雑種のロンを産んだ。

 ロンは病気で若くして死んだ。その時、チロはロンの傍に立ち尽くして、僕を見上げて訴えていた。なんとか救けて下さいと。

 その光景を思い出すと、胸が痛くなってきた。僕は一本めの酒を飲み干し、二本めの蓋を開けた。

 僕は桃太郎像にもたれかかった。時刻は9時を過ぎようとしていた。巡回中の警官が、僕を不審そうに見ている。僕は慌てて姿勢を正し、二本めを一気に空けて、腕時計を調節する仕草をした。警官の視線が僕から逸れた。

「もしもし」

 左手から声をかけられた。顔を向けると小柄な男がいた。ひどく痩せていて高齢に見えたが、後に知ったところではまだ五十代だった。ノーネクタイで白いワイシャツの上に、茶色の薄い上着を羽織っている。ズボンは紺色の作業用で、ちぐはぐな組み合わせだった。合成皮革製と思しき靴が、ネオンに照らされて爬虫類の鱗のように光っていた。

「平野真守さんですね。わしは段々村で助役をしております室見川亘むろみがわわたるという者です。お待たせして済みませんでした」

 僕は深々とお辞儀をした。室見川助役は言った。

「そんなに張らんでもいいです。さあ、参りましょう」

 一緒に地下の駐車場に入り、古びたセダンの後部座席に並んで座った。運転席には、いやに目付きの悪い男がいる。

「わしの息子の室見川信士むろみがわしんじです」

 親子にしては二人は似ていなかった。どちらも痩せ型だったが、助役は細面で信士は幅広の顔だ。僕が挨拶をすると、信士は面倒くさそうに顎だけ上下させ、「けっ」という声を発した。この男とは距離を置いた方がいいと本能が僕に警告していた。

 車が走り出すと、室見川助役は鞄からカップ酒を取り出した。

「もう一杯、どうです」

 初対面の相手に車内で酒を勧めるなんて常識はずれと思ったが、室見川助役はまるで無頓着だ。

「わしは運転しながら飲むことがあるんで、酒は常備しているんです」

 僕は絶句した。

「今日は、わしの代わりに新入りの方に飲んでほしいというだけです」

 わけのわからない理屈だと思ったが、目上の人の勧めではあるし、もともと酒は好きなのでちびちびと飲ることにした。

 道は空いていて、二十分ほどで郊外に出た。室見川助役が僕の顔を覗き込んだ。

「どうかな。割とうまい酒でしょう」

 甘口でまずくはなかったが、かすかに不自然な苦味があった。

「しばらくすれば山道に入るので揺れますから、早めに飲み切った方がいいですよ」

 僕は言われたとおりにした。まもなく対向車のヘッドライトがかすんで見えはじめた。闇の中から黒々とした山塊が現れて、ぐんぐん迫ってくる。その後のことは憶えていない。

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