9:10月1日 朝のこと ー助役夫婦との会話ー

 目覚めると、室内は淡い光に満ちていた。僕は寝間着姿で、和風の六畳間で横になっていた。蒲団には、手毬で遊ぶ子供の絵柄が付いている。古風な掛け時計は午前6時過ぎを示していた。

 跳ね起きようとしたが無駄だった。身体が重く、のろのろとしか動けない。

 室見川助役が襖を開けて入ってきて、ひざまずいた。

「昨晩は申し訳ないことをしました。酒にちょびっと睡眠薬を入れましてね。お疲れのようでしたから気を利かせたつもりでしたが」

「おかげでよく眠れましたよ」

 僕は上半身を起こしながら、皮肉を言った。舌がもつれて呂律が回り切っていない。そうでなければ、まくし立てるところだった。

 いくらなんでも他人に、同意を得ようともせず睡眠薬を飲ませたりすることがあろうか。敢えてそうしたのは、何か意図があるはずだ。途中の道を知られたくないとか、見られたら困るものがあるとか、急に降りられて逃げられたくないとか。いくつか理由は考えられるが、いずれにしてもまともな行為ではない。

 助役は平身低頭の様子で、言い訳にもならないことを言う。

「わしは枕が変わると眠れない性質で、急な外泊に備えて、いつも睡眠薬を持ち歩いているんです。本当に許して下さい。さあ、まずはひと風呂どうですか」

 問い詰めたい気持ちは大いにあったが、立場の弱い身であることに思い至り、申し出に従うことにした。

 風呂は、いい湯加減だった。傍の竹林が風に揺れる音に交じって、小鳥の鳴き声が聞こえる。久々に味わう清々しさだった。僕の気持ちは、次第に緩んできた。なにも縛られたり武器で脅されたわけではない。助役の言い分を素直に受け止めようと思った。

 朝風呂を堪能した後、僕はスーツに着替え八畳の居間に入った。そこでは助役の奥さんが朝食の支度をしてくれていた。彼女は暁子あきこと名乗った。小柄で田舎の女性まるだしだが、厭味は感じさせなかった。

「まあまあ、遠方からようこそお越し下さいました。大したものはありませんが、どうぞご遠慮なく」

 座卓の上には山菜の澄まし汁と卵焼きや漬物が並んでいた。このところの食生活はひどかったので、ご馳走に思えた。

 夫婦は食事は済ませており茶を飲みながら、僕のこれまでの仕事内容や私生活について根掘り葉掘り訊いてくる。僕が多少の色を付けて答えると、暁子はいちいち大仰に反応した。

「都会って怖いですねえ。生き馬の目を抜くというのは本当ですねえ。私なんか、こんなのんびりした所に住んでいますから想像もつきません」

 僕は心にもないことを言った。

「こういう所こそ、人間的に生きられると思いますよ。ところで昨日、運転して下さった息子さんにお礼を言いたいのですが」

 助役が頭を振った。

「それには及びません。信士はもう仕事に出ているはずです。離れで寝起きしているので、よくわかりませんが」

 語尾があやふやで弱々しかった。信士は家族と顔を合わせるのが厭なのだろうか。しかし助役は少し自慢そうに続けた。

「あれも村の職員で、村長に目をかけてもらっています。毎日、村の周囲を巡回するのが主な役割でしてね。猟銃を持って」

 僕は怪訝に思った。

「熊でも出るんですか」

 暁子が口をはさんだ。

「まさか。猪ですよ。たまに鹿も出ます」

 僕は肩をすくめた。

「猪は危ないですね。息子さんも大変だ」

 助役が真剣な表情になった。

「それどころか、ちょっと奥に入ると狼が生き残っているかも」

「ご冗談を。そんなに深い山ではないでしょう」

「高くはないが険しいですよ。傾斜が急で、ぎざぎざの谷が至る所にあって、いまだに人が踏み入っていない場所もあるはずです」

 眉唾ものの話だと思ったが、とにかく荒々しい自然が残っていることは事実なのだろう。助役は猟銃を構える仕草を見せて言う。

「信士は獲物を業者に売りさばいて、村の収入の足しにしております。蝮を捕まえるのもうまい。これも悪くない値段で売れます。そうそう、まだ蝮は出ますから草むらには近付かないことです」

 僕は信士の手伝いだけは御免こうむろうと思った。

 8時になった。助役が腰を上げた。

「そろそろ役場に参りましょうか」

 助役は散歩がてら歩いていくと言うので、僕も従うことにした。

 家から一歩出ると、首筋に身震いするほどの冷気を感じた。

「ちょっと冷えますね」

「そりゃ、ここは標高四百メートルですから」

 目の前には盆地が広がっていた。助役の家は、その西端の高台にあり盆地全体を一望することができた。

「ここが段々村です。ざっと説明しておきましょうか」


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