28:11月24日のこと -霊犬伝説と碧の動揺ー
三番目の報告書の返信が、雅樂から届いた。今回はかなりの長文で、まず元宮杏子の遠い親戚が、幼い頃に聞いたという言い伝えが書かれていた。
それによると段々村のある盆地は、大昔は怪物の棲む湖だった。段々の人々は近隣の山地で暮らしていたが、採鉄をめぐって琴浦の民との争いが絶えなかった。ついに追い詰められた段々の人々は、神と崇めていた怪物に祈りを捧げると湖が決壊した。湖水は濁流となって琴浦を襲い、多くの住民が溺れ死んだ。生き残った人々も流されてきた怪物に次々に食い殺された。
その時、たまたま付近を舟航していた役行者の弟子たちが、ふと海水を舐めてみると塩気が感じられない。海に流れ出た湖水で薄まっていたのだ。真水を求め上陸した一行は怪物に襲われたが、伴っていた黒い犬がそれを追い払ったという。
それから千年近くも後のこと、段々の人々はかつての湖底に住み着いていた。ある年の暮れ、人身御供にされようとした娘を救うため旅の武士と一頭の犬が、村の守り神を斃した。このことが原因で、豊かだった村は貧しくなった。そのため段々村では犬を忌避するようになったという。
雅樂は、この言い伝えに関する文献を探しているのだそうだ。僕にはただのお伽話にしか思えないのだが、彼は実際に起きた事と考えているらしい。理知の塊のような人物なのに意外だった。さらに奇妙な記述が続く。
「戦時中に目的不明の地質調査が実施され、千三百年ほど前まで段々村がある盆地は実際に湖だったことが判明した。その成因については隕石孔説は否定され、火山性の地形と断定された」
「恐らく村外との唯一の出入り口が決壊の跡であろう」
「およそ八万年前には、段々村一帯に標高七千メートル級の火山が存在した。そのマグマ溜まりの跡が巨大な地底湖になっているとの仮説が提出されたが、その後に調査が行われた形跡はない」
以上は雅樂にとっては興味津々な話かもしれないが、僕にとってはどうでもいいことだった。そんなことより早くカジノリゾート計画の手助けをと願うばかりだった。
その日は、母からの葉書も受け取った。この村に来て、一度だけ母に葉書を送ったことがある。忙しくて電話の受け答えはできかねるが、心配は無用だと書いた。返信は儀礼的なものだった。
今回の葉書は、正月には必ず帰省するようにと記してあった。妹が成人式に出るための振袖を誂えたので、ぜひ見てほしいのだという。何の異存もなかった。どうせ村を出ても、すぐには行く先はない。しばらく実家に滞在するしかなかった。
夕方、その旨を書いた葉書の投函を碧に依頼したが、生返事だった。しばらくして虚ろな表情で呟く。
「帰るのね」
「読んだんだね」
決して咎めるつもりはなかったが、碧の頬は真っ赤に染まり、身を投げ出すように頭を下げるのだった。
「ごめんなさい。盗み見する気はなかった。たまたま目に入ったの」
「謝らなくていいよ。読まれて困りはしないから」
碧は訴えかけるような眼差しになった。
「平野さんが羨ましい。どうやってでも生きていける。私なんか、こういうふうにしか生きられない」
彼女にとって僕は、自由の象徴なのだろう。慰めようとしたが、何を言っても気まずくなりそうなので止めた。しばらくして碧は夢見るような目つきになった。
「妹さん、着物が着られていいわね」
「碧さんは、成人式はどうしたの」
「行っていない。着物なんか買えないし、借りる余裕もない。作業服じゃ恥をかくだけだし。それに村長さんのお許しが出ないと思う」
僕は考え込んだ。両親である久吾屋夫妻は目に見える虐待こそしていないが、彼女に対して冷淡すぎるのではないか。つい僕は口にしてしまった。
「ご両親は、娘の晴れ着姿を見たくないのかな」
碧は僕の真意を察して、言い訳がましい口振りになった。
「お父さんもお母さんも、私に良くしてくれているよ。役割を果たすのに必要なことは全部、教えてくれたし」
僕は耳を塞ぎたくなった。この場合は役に立つとか立たないとか、そういう問題ではないだろう。
僕が急に押し黙ったので、実は気を悪くしていると勘違いされたらしい。
「本当にごめんなさい。許して。もうしないから」
「怒ってなんかいないよ。僕の葉書なら、いつ読まれても平気だ」
碧は安心したようだが、今度はもじもじとしている。
「私なら、それでいいかもしれないけど」
「遠慮しないで言ってごらん」
「郵便は、山野瀬巡査さんが目を通しているの。村の出入り口で私の車を停めて。変なことが書いてあると、村長さんに報告されて破り捨てられたりする」
一瞬、冷や汗をかいたが、幸いなことに検閲の対象は個人間の郵便だけだという。とにかく雅樂の洞察力と周到さには舌を巻くしかなかった。
「だから村の悪口なんか書かないでね」
「心配しないで。非常識なことはしないよ」
碧は微笑みを取り戻した。その笑顔を守る方策は、まだ見つかっていない
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