36:12月29日 午後のこと -妙子の身の上話ー

 ひとまず正午過ぎには、掃除も一段落した。室見川暁子は退出し、役場には僕と御田島妙子だけが残って締め括りの作業をすることになった。妙子はまったく食欲がないと言うので、僕も昼食を抜くことにした。彼女の顔は異様なほど蒼ざめていたが、関わりを持ちたくないので見て見ぬ振りをした。

 外の焼却炉で不要な書類を燃やしていると、次第に天候が悪くなった。空は黒く厚い雲に覆われはじめ、ごうごうと重苦しく風が鳴る。今晩は雪になるかもしれない。瀬戸内沿岸は滅多に降雪はないが、この村は高所のため年末には必ず雪が積もるそうだ。

 気が滅入りそうになって屋内に戻ると、一階の窓口の前で妙子がモップの柄を握りしめたまま、茫然と立ちつくしていた。枯木のように痩せた身体が、小刻みに震えている。今まで何とか持ちこたえてきたが、ついに精神が崩壊したという印象を受けた。

 僕の姿を認めると彼女は床に崩れ落ちた。表情は恐ろしいほど歪み、涙と鼻水を垂れ流している。異様な病気にかかっているのではないかと思え、僕は近づけなかった。

 とうとう彼女は、汚れたモップで顔をごしごし拭きはじめた。茶色い水が滴り落ちて、高級そうな灰色のセーターをどろどろにしていく。さすがに見るに忍びなくなった。

「やめて下さい」

 モップを強引に取り上げると、妙子は床に突っ伏し嗚咽を始めた。やがて苦しそうに上半身を起こすと、喉の奥から言葉を絞り出す。

「助けて。私、切られる。お願い、助けて」

 役場を首になるということか、それとも村長に離婚されるということか。いずれにしても結果的には同じことかもしれないが、考えている場合ではなかった。

「ゆっくりお話しを伺いますから」

 ひとまず顔を洗わせると、妙子を待合のソファに座らせた。僕も隣に腰を下ろし、無理やり優しい声音を作った。

「切られるとは、どういうことですか。できることがあれば、力になりましょう」

 本当は何もできるはずはないと思っていたが、口を開かせるためには致し方なかった。妙子は多少は落ち着きを取り戻し、口ごもりながら答えた。

「切られる、とは殺されるということです」

 杞憂だと思ったが、笑い飛ばすことはできなかった。

「誰にですか」

 妙子は口をつぐんだ。察してくれと言いたそうだ。僕は質問の切り口を変えた。

「なぜですか」

 妙子は意外にも滑らかに答えた。

「パートナーに大損をさせたからです」

 その言葉は夫である御田島丞介村長が、彼女を殺害する動機を有していることを端的に物語っていた。村長が金銭問題を抱えているという、以前の僕の直観は正しかったわけだ。しかし僕は、すぐには信じ切ることはできなかった。殺人など容易にできることではあるまい。

 妙子は疑わしそうな僕をちらっと見て、じれったそうに言った。

「順を追って話すと、わかっていただけると思います」

 それから堰を切ったように喋りだした。


 妙子の生家は、江戸時代から続く横浜の漬物商だった。何不自由なく育てられ、黎都大学経済学部を卒えると東京の生命保険会社に入り経理部門に配属された。その直後、両親は事故死し家業は親戚に乗っ取られた。

「若かったんですね。お金持ちになって家業の漬物屋を買い取ってやるんだと決心しました」

 彼女は、いわゆる生保レディに転身する。口外を憚られるような手を使って、常にトップクラスの成績を上げ続けた。それとともに株と不動産投資を始めた。

「今から思えば、かわいい金額ですが儲けましたよ。亡くなった父が、その方面が好きだったので何となくですが知識はありました。それから当時、付き合っていた男性が証券会社に勤めていましてね。いろいろ教わりました」

 その男性とは婚約直前まで漕ぎつけた。しかし彼は妙子の全財産を自分の懐に入れ、姿をくらませた。

「競馬好きでしたからね。顧客のマネーを使い込み、その穴埋めを私のマネーでしたんです。警察に届けましたが行方はわかりませんでした。その筋に近い顧客もいたようですから、最悪の事態が起こったのかもしれません」

 絶望の最中にあった時、凄腕の女勝負師がいると聞きつけた病院の理事長が、秘書という名目で引き抜いてくれた。

「かなり尾ひれが付いた噂でしたが、悪い気はしませんでした。慢心していたんですね」

 その頃には、元の家業のことはどうでもよくなっていた。彼女は理事長の右腕として投資活動に明け暮れた。

「自分を必要としてくれる人のために精一杯、頑張りたいという気持ちだけでした」

 妙子のおかげで病院は大きくなり、理事長は富豪の仲間入りをした。いつしか二人は関係を持つようになっており、理事長は妻と別れて妙子と結婚すると約束してくれた。ところが土壇場になって理事長は、手のひらを返した。妻の父親は医師会の重鎮で、もし離婚するなら病院の医師全員を退職させると通告してきた。

「彼は形だけは平謝りでしたが、言い方があまりに冷淡でびっくりしました。私は、何度も何度も約束は守ってとお願いしました。しまいには言い争いになり彼は、私が汚いやり方でカネ儲けをしたことを告発すると脅してきました。そこまで言うかと頭に血が上りました。確かにそんなこともしましたが一体、誰のためだったでしょう」

 逆上した妙子は、ナイフで理事長を刺した。彼は一命は取り留めたが、妙子は刑に服することとなった。釈放後は、流れ流れた末に水島の工場で職を得たが、前科が知られ職場に居づらくなった。そんな折、御田島丞介と偶然に再会した。3年前のことだった。

「大学時代から顔見知りではありました。二年先輩でね。あの人は私の経歴などを良く知っていました。もう娑婆ではやっていけないから、村に来て才能を発揮してくれと口説かれました」

 曖昧な言い方だったが、幾度か寝室は共にしたようだ。けれども籍は入れていないと言う。実態は家政婦兼秘書だったが、妻ということにしておけば村民に詮索されずに業務も順調に運ぶとの判断だったのだろう。

「それにあの人には、事実上の奥さんがいますから」

 その女性とは御田島丞介が会社勤めをしていた時に結婚し、子供も授かった。そんな時、父である前村長の御田島全蔵が急逝した。丞介は帰村を決意したが、妻が田舎の生活を嫌ったので別れたのだった。

「でも言ってみれば偽装離婚ですよ。世の中、そうした方が有利に働くこともありますからね。その証拠に頻繁に出張に行っているでしょ。あれは家族に会うためもあるんです」

 会うためも、と妙に「も」を強調したのが気になったので探りを入れた。

「出張が多いのは、それ以外に当然ビジネスもあるんでしょうね」

「ビジネスというよりマネーの算段ですね。借り入れと返済が遅れる言い訳をするために飛び回っているんです」

 

 




 

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