35:12月29日 午前のこと -締まりのない仕事納めー

 碧と裸で抱き合ったまま毛布にくるまれ、しばらく眠った。額に熱い息を感じて目覚めると、やるせなさそうな碧の顔があった。

「もう少しでいなくなるのね。私を連れて行こうなんて、これっぽちも思っていないでしょ」

 僕は、狼狽をごまかすために彼女に口づけた。不意に以前、春になったら仙随山に行きたいと碧が言ったことを思い出した。彼女はまだ憶えているだろうか。

 答えに窮していた僕は、きれいごとを口にしてしまった。

「碧さんは、この村に必要な人だから」

 彼女は寂しそうに微笑み、静かに毛布から出た。ゆっくりと肌着を着けながら、ひと言ひと言を噛みしめるように言う。

「楽しかったわ。ひとつだけ、言っておきたいことがあるの。私、男の人は初めてじゃないけど、相手は村の人ではないから」

 僕はうなずいた。恐らく相手は琴浦町に住む同級生で、仕事絡みの付き合いが発展したのだろうか。名前も姿形も知らない、その男に嫉妬心を燃やしていることに気付き、僕は愕然としていた。


 出勤前に手早く自宅に送る荷物をまとめた。すでに持ち帰っていた役場の私物類も何とか詰め込めた。残る二日間の肌着類は、高校時代から愛用しているナップサックに押し込んだ。

 碧に発送を頼むと、わかりましたとだけ答えた。努めて事務的な対応に徹しようとしているようだった。僕も彼女のことは、村での唯一のいい思い出として心に留め置くだけにするつもりだった。

 始業時間になると、すぐ村長室に招集された。御田島村長と妙子、室見川助役と暁子それに信士、そして僕が一堂に会した。職員全員が集まったのは、僕が村に来てから初めてだ。妙子と暁子の間に漂う微妙なよそよそしさが、その場の雰囲気を朝なのに黄昏時のようにしていた。

 酒、ソフトドリンク、つまみ各種が無造作に並べられているテーブルを前に、村長がゆっくりと口を開いた。

「本日が仕事納めです。一年間、ご苦労様でした。地質調査の方々も夕方までには撤収する予定です。特に業務はないだろうが、整理整頓と掃除を頼みますよ。さて従来は納会は勤務時間後に行なっていたが、本日は今から簡単に実施せざるを得なくなった。急に東京に出張しなければならなくなったのでね」

 室見川暁子が素っ頓狂な声を上げた。

「まあ、こんな時期にですか」

「リゾート開発の件で先方から呼び出しがあったので、無理をしても行かなきゃならん」

 助役が訊いた。

「大晦日の祭りには、間に合いますよね」

「もちろんだ。遅くとも昼過ぎには帰れる。すぐに柘榴峰に直行するよ。準備の方は滞りなくお願いしますよ」

 僕は挙手したが、「けっ」という声を発した信士に横目で睨みつけられた。とにかく僕が少しでも目立つのが気に食わないらしい。

「村長さん、祭りの準備で人手が要るのでしたらおっしゃって下さい。力仕事ならできますから」

 やる気はなかったが、一応はお伺いを立ててみた。村長は少し考え込んだ。

「平野君、準備の方はいいよ。ただ宿舎にいても暇をもてあますだろうな。適当な時間帯だけ役場に来てもらって電話番をしてもらおうか。ここにいる全員が村を空けることになるのでね。何かあれば山野瀬に相談しなさい」

 休日ではあるが、遊びのような業務なので僕は引き受けた。暁子が、どこかいわくありげに口をはさんだ。

「平野さんは契約満了したら、どうしたいの」

 普通は「どうされるの」と言うと思ったが、深読みはしないことにした。いちいち気にしていたら元気がなくなるだけだ。

「ひとまず実家に帰ります。ついては、できれば早い時間に出発させていただきたいのですが」

 村長が時刻表を開いた。

「そうだね、年内に帰省したいのが人情というものだ。大晦日の夕方、5時に村兵を宿舎まで派遣するよ。児島駅まで送らせよう。それで7時台の岡山発の特急に間に合うはずだ。今月分の給与は、その時に村兵から渡そう。出納長、用意しておいて下さい」

 妙子が無言で、かすかにうなずいた。白々しい空気が、室内を満たした。村長は、それを払拭しようとしてか場違いな大声を張り上げた。

「さあ、始めるぞ」

 紙コップにまずは日本酒が、なみなみと注がれた。助役の乾杯の発声とともに信士はひと息で飲み干し、朝っぱらからお代わりまでする。村長は口だけ湿らせ、すぐに退出しようとした。僕は慌てて呼び止めた。

「これでお会いするのも最後です」

「ああ、スケジュール的にはそうだね。すばらしい計画を作ってくれて感謝しているよ」

 ためらいがちに口を開こうとしたが、村長は察しが良かった。

「報奨金の件だね。これも大晦日に村兵から小切手を渡すよ」

 通常は振込にすると思ったが、村長の意向には逆らえない。その後、村長は僕の肩を軽く叩いた。

「なんだか、すぐに会えるような気がするんだよ」

 謎めいた言葉だったが、そこに深い意味はないと思い込もうとした。「どこかで、また会いましょう」ということだろうと自分を納得させた。

 村長が立ち去ると、暁子の独壇場になった。とにかく早口で、些細なことを大仰に膨らませて喋りまくる。妙子は村長夫人で出納長なのに、部屋の隅で縮こまって機械のように相槌を打っているだけだ。助役と信士は飲むことに一生懸命で、結局は僕ひとりで暁子の相手をしなくてはならなかった。

「大晦日の夜は、琴浦町で年忘れの大花火大会があるんですよ」

「それは残念です」

「祭りが終わっても柘榴峰からは、わずかに見えるんです」

 助役が、余計なことを言うなとばかりに顔をしかめた。暁子は急に黙り、助役が話題を引き継いだ。

「琴浦町の連中は、静かに過ごすべき時にバカ騒ぎをするんだから、うんざりですよ。大人しく歌番組でも見ていりゃいいのに」

 それを境に助役と信士は、さらに腰を据えて酒をあおりはじめた。女性たちが逃げ出したので、僕も退席しようとした。それを目にした信士は、村長にやる気のあるところを見せようとして傍らに置いていた雑巾とはたきを僕に向かって投げつけた。

「けっ、きちんと掃除しておけよ。早くおうちに帰りたいって、てめえ、ガキかよ。最後まで責任もって役割を果たせ」

 僕は、やっとのことで怒りを抑えた。

 妙子と暁子と僕とで手分けして掃除をしている内に、助役は泥酔し帰宅した。いつの間にか信士もいなくなっていた。自分の飲み食いの後片付けすらしていない。信士の村長への忠誠心なんて、表向きだけのものだろう。




 





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