22:10月第3週のこと -「余分」のタロウの秘密ー
木曜日まで御田島村長は、またしても出張ということだった。僕はけっこう本気で業務に取り組みつつ、雅樂への第二の報告書を仕上げ、碧に投函を依頼した。
第一の報告書の返信は、週半ばに手元に届いた。特に内容はなく今後、調査と解析を進めるとあった。最後はこのように結ばれていた。
「あなたは優しすぎるところがあります。その優しさが、あなたの身を危うくすることがあるかもしれません。けれども最後にはその優しさが、あなたを救うことになるでしょう」
からかわれているような気がしたが、雅樂はそのようなことをする人物ではないだろうと思い直した。村の人間関係に深入りするなという戒めだと受け取ることにした。
金曜日の定例会議は拍子抜けするほど、あっさりと終わった。村長は心ここにあらずという感じで、僕の提出した案にも口をはさまない。
「平野君、わかった。その調子で、さらに磨きをかけて下さい。さて助役さん、話は変わるが再来週に地質調査が入ることになってね」
「何か進展があったのですか」
村長は首を振った。
「何も。まったくの別件だ。大学の後輩が、ここの地質を調査したいと言ってきた」
僕は妙な気がした。経済学部の後輩が地質学者というのはあり得ないだろう。しかし僕は何も言わなかった。室見川助役はそもそも疑いを持っていないようだ。
村長は前屈みになった。
「総勢十人ばかり来るので、本部兼休憩場所が欲しいそうだ。あの廃校はどうだろうね」
助役は難色を示した。
「たまに掃除はしていますが、電気は止まったままですよ。井戸は大丈夫ですが、便所は使えたものじゃありません」
「電源も仮設トイレも持ち込みになる」
「それなら別に問題ないと思います」
「ただ心配なのが窓や天井や床だ。そのあたりのメンテナンスはしてないよね。足を踏み入れた途端、床が抜けたりしたら大変だ。午後から平野君と一緒に、いわゆる安全性を確かめてくれないか」
昼食を済ませ出かけようとした矢先、珍しく助役に急用ができた。一時間ほど遅れるという。僕はひとりで廃校に赴いた。校門は撤去されていたが、校庭はきれいに整備されていた。段々村独立の暁には、再び開校するつもりなのだろうか。今のところ対象は余分の子しかいないが。
戦前に学校があったということは、一人や二人ではなく相当の数の生徒がいたのだろう。その当時は村民はかなりいて、教育にも力を注いでいたということなのか。
村民は何でも昔からそうだったと言うが、そのように信じ込んでいるだけではないか。いや、信じ込まされているだけの可能性もある。その理由ははっきりとしないけれど。
さて空は晴れ渡っていたが、校舎の中は真っ暗に近かった。ガラス窓は外され、木が打ち付けられて塞がれている。そこのわずかな隙間から入ってくる光で教室の中が見て取れた。教壇も机も椅子も撤去され、残っているのは表面が剥げかかった黒板と隅の掃除道具入れだけだった。
持参していた懐中電灯を点けると、床は埃でうっすらと覆われていることがわかった。そこにいくつもの小さな靴跡と、それに交じって動物の足跡のようなものが見えた。その跡を目で追った先に人の気配があった。
怖気づきながらも声をかけた。
「誰か、いますか」
返事はない。ふと視線を落とすと床には赤黒い染みが点々としており、黒い毛があちこちに散らばっている。ぼんやりとだか、何が起こったか想像できた。
「誰か、いるね」
掃除道具入れの戸がそっと開いて、中から余分のタロウが出てきた。泣きそうな顔で身体を硬直させている。
「おじさんで良かった。ねえ、他の人に言わないで。母ちゃんやハルコが叱られる」
「心配しなくていい、内緒にするよ。それよりどこから入ってきたの」
タロウは足元を指差した。床下点検口が開いていて、床下から教室に出入りできるようになっていた。床下には壊れた通風孔から入ったのだろう。
「何をしてたの。毛や血の跡みたいなものがあるが」
ダンがいたに違いなかった。タロウは観念したようだ。
「仔犬が溝で動けなくなっていたので身体を拭いて、僕のご飯をあげた。その後、仔犬を抱いてここまで来たんだ」
「その犬は、どこに行ったの」
タロウは涙を流しはじめた。
「知らない。昨日までいたのに」
慌てて彼の口を優しく塞いだ。
「大きな声を出さないで」
タロウはこっくりとうなずいた。
「タロウ君は犬は怖くないのか」
彼は首を振った。
「小さかった頃、クロベエという犬を飼ってた。一緒に父ちゃんとよく散歩に行ったよ」
僕は自分の少年時代を思い出し、息苦しさを覚えた。逆にタロウは、幼い頃の幸せな記憶に活力を与えられたのだろう。それまで訥々と話していたのに、急に口が滑らかになった。抑えきれなくなった感情が、心の堰を壊して溢れだしてきたのだ。
「父ちゃんが警察に捕まって死んでしまって、母ちゃんとハルコと一緒に
もう話を聞いている暇はなさそうだった。僕はタロウを床下に逃がすと、井戸水を汲み雑巾で床をせっせと拭いた。血の跡には手こずったが、何とか目立たないようにはなった。
そうしている内に助役がやって来た。
「おお、ご苦労さん。ひとりで働かせて済まなかったですねえ」
「大したことはありません。まだ全部は点検しきれていませんが、明かりさえあれば打ち合わせや休憩は十分できると思います」
助役は嬉しそうに言った。
「そうだね。早速、石切屋に窓ガラスを入れさせましょう」
その無頓着な様子に、僕は胸を撫で下ろしていた。
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