25:11月第2週のこと -碧が語る村長の秘密ー
祭りの当日は真冬のような冷え込みだった。朝早く外に出てみると、あちこちから水蒸気が立ち昇っていた。夢幻的な光景を表現すべきところだが、なぜか僕には瘴気としか映らなかった。
昼前に碧から声がかかった。
「昼ご飯は鍋物よ。母屋で食べましょ。今日はお父さんもお母さんもいないから」
ひとりで鍋をつつくのは侘しかろうと誘いに応じることにした。土間のテーブルの上のアルミ鍋から湯気が上がり、おいしそうな匂いが漂ってくる。
碧は遠慮がちに言った。
「
「ぼたん鍋だよね。会社の忘年会で食べたことがあるよ。あの時は味噌仕立てだった」
碧は心配そうな顔になった。
「これは醤油と味醂と生姜で味付けしてるの。この辺りでは味噌はあまり使わないから。口に合うかな」
僕は一口、食した。
「おいしいよ。あっさりしていて」
碧は胸を撫で下ろしたようだ。
「ビールを頼むよ。碧さんも付き合って」
「いつ用事が飛び込んでくるかわからない。そうなると運転しなくちゃいけないでしょ」
無免許は平気なのに、さすがに飲酒運転は怖いのだろう。
「今日は郵便局も銀行も役場も休みだよ。お願いされても明日に回せばいいだろ」
「じゃ、一杯だけ」
碧はしおらしくグラスを手にしたが、瞬く間に空けてしまった。僕は有無を言わさず二杯目を注いだ。彼女は、両親が帰宅するまでに酔いが醒めるかどうか気にしていた。
「飲んだことがわかったら何か言われるの」
「別に。でも良い顔はしない」
碧の表情は翳り、唐突に奇妙なことを言いだした。
「私、生きているような気がしないの。本当は、もうこの世にいないんじゃないかと思うことがある」
「どうして、そんなことを」
「琴浦町に行ったりテレビを見たりすると、若い女の子は皆、きれいな服を着て友だちと遊んでいるでしょ。私、そういうことに憧れたり、自分もしたいなと思うことがなくなってる」
彼女は三杯目を飲み干した。
「だいぶ前から喋ったり、笑ったり、怒ったり、泣いたりすることが面倒になってきている。想ったり、考えることもできなくなってきている。自分がなくなっているような気がする。自分がなければ、楽しいことも嬉しいこともない。そのままだったら死んでいるのと同じでしょ」
僕は諭すように言った。
「そんなことはないよ。自分で外に出ればいいだけだ」
碧は寂しそうに呟いた。
「だって自分がなくなっているのに」
僕は絶句せざるを得なかった。碧は続けた。
「それに学校もまともに行っていないし、おカネもない。そんなのが外でやっていけるわけがない。ここにいれば飢え死にすることはないわ」
僕は安易に言葉を発したことを後悔していた。そして彼女のために何ができるだろうかと考え込んだが、何も思いつかなかった。僕が黙り込んだので、碧は不安を覚えたようだ。
「ごめんなさいね、変なことを言って。明日は仕事なのに。難しいことをしているんでしょ」
「大したことはしていないよ。力不足で村長に叱られっぱなし」
僕が大袈裟に言うと、碧は声を潜めた。
「村長さんって本当はどんな人なの」
率直には答えられなかった。
「村のために夢を追いかける人かな。碧さんの方が、よく知ってるいると思うけど」
彼女は首を横に振った。
「よくわからない。人前では明るくて元気一杯なんだけど、誰も見ていないような所では、ものすごく暗い感じになることがある。それに一年ほど前から変な郵便が来るの。中身はわからないけど封筒に内容証明と書いてあるの」
僕は、村長にはカネにまつわるいざこざがあるのではないかと直感した。それゆえ頻繁に出張に行っているのではないか。
碧は妙子の最近の様子についても訊いてきた。どんどんやつれていっていると言う。僕は以前のことは知らないので、よくわからないと答えた。碧によると村長夫妻は三年ほど前に結婚したが、今は不仲らしいということだ。
「もしかして村長は再婚なの」
「そうみたい」
興味深い話だが、碧もはっきりとしたことは知らないようだった。そのまま食事が終わり、彼女は何事もなかったかのように洗い物をはじめた。
この週は、雅樂への三番目の報告書を作成し投函してもらった。入れ替わりに二番目の報告に対する彼からの返書が届いた。
「段々村において犬を忌避するのは、家畜類を養うだけの食糧を生産することができなかったことに由来すると一般的に考えられる。しかし他の可能性もあるため調査中」
「錬堂教授と三蔵門氏は同一人物である蓋然性が高いでしょう。この件は今のところ最大の収穫です」
「その他のことは調査中」
僕の報告に対して、まともに答えてくれていないことがもどかしかった。何を調査しているのか、それをしてどうなるのかという思いも湧いてきた。
ただ雅樂は、僕が無い知恵を絞っていることに同情してくれていた。「私が簡単に考え過ぎていました。予想外にハードルが高そうですね。こういうプランはいかがでしょうか」と三つも案を提示してくれた。
最後は、ありきたりな文言で結ばれていた。
「とにかくご辛抱下さい。後二か月ですから」
宿舎の裏で手早く返書を燃やすと、僕は一杯ひっかけて蒲団に潜った。昼間の碧の言葉が、脳裏に浮かび上がってくる。別の意味で、僕も自分に確信が持てなくなっていた。
なぜ安易に雅樂を信じてしまったのだろう。敢えて会社を辞めて、辺鄙な所で訳のわからない仕事に携わり理不尽な仕打ちを受ける。まるで愚か者の所業だ。彼は何者なのか。よく考えると経歴も怪しいものだ。裏の顔を持っているのではないか。
不安は疑念を呼び寄せ、さらに膨らんでいく。僕はこれからどうなるのだろう。この村を去った後、就職できるだろうか。故郷に戻らざるを得ないのか。
「厭だ、あんな所」
思わず口にした途端、故郷の海の幻が目の前に広がった。僕は自問自答した。何が厭なんだろう。僕の家族を貧乏だと蔑んだ人がいたからか。実家のトイレが汲み取り式だからか。その戸がきちんと閉まらないからか。父親が飲んだくれだからか。遊ぶ所がないからか。
埋もれてしまうのが厭だと僕は思った。しかし一体、何を欲しているのか。地位か、名誉か、金銭か。いや、それらは手段だ。僕は、自分というものと自分の人生が欲しいのだと気付いた。ここの村民のような生き方は御免だ。
そう思い至ると自分がすべきことが、くっきりと脳裏に浮かび上がってきた。これから起きることをしっかりと見据え、それに対して自分の立ち位置をはっきりと定めることだ。
そして、詰まるところ雅樂を信じてみるしかないのだろうという結論に達した。
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