3:その夜のこと -謎の人物の正体ー

 飯沢由衣子に電話したが、つながった途端に切られてしまった。彼女とはもう何日も会っていない。僕は彼女のマンションに押しかけて行った。

 チャイムを鳴らすとドアが開いたが、僕はその場で制止された。由衣子はまったくの無表情だった。

「今日は疲れているの。帰って」

「ちょっと上がらせて」

 彼女は髪をかき上げ、きつい口調になった。

「あなた、結構な額の借金があるんでしょ。返せそうにないんでしょ」

 その剣幕に僕は気圧されていた。

「今日、電話があったのよ。きちんと返済するように取り計らっていただけませんかって。私が黙っていると、次には返済のお力添えを願えませんかって。なんで私が、そんなことをしなくちゃならないのよ」

 それを聞いて、怒りが込み上げてきた。

「どこの業者だ。そんなことを第三者に言うなんて」

「知らないわ。女の人からだった。私、これでも経営者の娘なのよ。おカネにだらしない人って本当に嫌いなの。もう終わりにしましょ」

 僕の怒りは、今度は由衣子に向かった。

「今までは何だったんだ」

 彼女は僕から目を逸らせた。それは良心の呵責のためというより、汚いものを見まいとする仕草に映った。

「あなたが、花形の業界でエリートだと嘘をついたから騙されていたのよ。本当ならお医者さんとか国際線のパイロットとお付き合いしたかったわ」

 さすがに僕も激昂した。

「自分でエリートなんて言ったことないだろ。いい加減にしろ。借金だって、お前のせいだ」

 言わなくていいことを口走ってしまった。すぐに後悔したが、後の祭りだった。

由衣子は燃えるような眼になった。

「自分が勝手にしたことでしょ。他人のせいにしないでよ。さあ、帰って。二度と来ないで。警察を呼ぶわよ」

 すでに同じフロアの住人が、ドアを開け、こちらの様子をうかがっていた。110番通報がされている最中かもしれない。僕は慌てて、その場から逃げ出した。けれども何故かほっとした気持ちになっていた。

 帰り道、僕は現実に直面しようと心に決めた。債務は、無限の張力を持つ風船のように膨らんでいく。ちまちまと返済していっても、全然追いつきそうにない。雅樂の提案に従うしかないのだろう。

 けれどもその前に、彼が信用できる人物かどうか確認すべきだと思った。僕は自宅に戻ると早速、受話器を持った。相手は故郷にいる同級生の葉賀はがという男だ。彼は信用金庫に勤務していて、地元の事情通だと聞いていた。

「遅い時間に済まない。雅樂重樹という人を知ってるか」

 訝しそうな様子の葉賀に、僕は簡単に事情を説明した。彼は唸った。

「重樹氏、さすがだな。行動が読めない」

「良くない人、なのか」

 葉賀は笑った。

「いや、この上なくいい人らしい。それにあらゆる面で優秀だ。お前、知らないのか。境港のダ・ヴィンチと呼ばれたんだよ。受験業界では、いまだに語り草になってる」

 雅樂は高校時代、全国模試で常に三番以内だったという。

「地方の公立高校ではあり得ないと評判だったらしい。中学の教師は都会の進学校を勧めたが、本人が蹴った。地元愛が強かったのかな。実にもったいない。そうそう、ある模試で偏差値100を叩きだしたという」

「偏差値に100なんてあるのか」

「よくわからんが、皆が零点でひとりだけ満点ならあり得るんじゃないか。まあ、これはガセネタかもしれないが」

 葉賀は自分の話に興奮してきたようだった。

「それだけじゃない。スポーツもできる。高校の時、県の陸上競技大会に遊び半分で出場し、百メートル走で優勝した。ボクシングも部員より強かったという。ピアノもできた。文化祭でショパンを弾いて音楽教師を卒倒させたらしい。絵も和歌も玄人に褒められたという」

 僕は話を遮った。

「おいおい、さすがに嘘くさいぞ。ボクシングなんか、どこで習うんだ」

「いや、本当らしいよ。ボクシングにしてもピアノにしても勉強にしても、小さい頃から指導者が一部門、一教科にひとり、付いていたという。それも学生バイトなんかじゃなくプロや教授クラスの人がね。総勢二十人ほどになるのかな」

 僕は嘆息した。

「とんでもなくカネがかかるな。親は大変だったろう」

「雅樂家は世間にはあまり知られていないが、大富豪だからな。本宅は境港のはずれにあって普通の豪邸レベルだが、島根半島の北側にある別宅は港を丸ごと持ってる」

 雅樂家はもともと網元だったが、戦後、その地位を失った。しかし裏すれすれの稼業で持ち直すと、その後はなりふり構わず手を広げていったという。

「水産関係はもちろん、造船、金融、観光、運送、貿易、小売、飲食、マンション経営など、やっていない事業を探すのが難しい。そうそう、ラブホテルのチェーンも展開している」

 僕は呆れた。

「凄まじいグループだな」

 葉賀が苦笑する姿が目に浮かんだ。

「俺の勤め先も実は、雅樂家の貯金箱みたいなものだよ。まあ、どれもこれも大した企業じゃないが百社もあれば、塵も積もれば何とやらだ。雅樂家の年間収入は数十億はあるだろう」

 僕は二の句が継げなくなっていた。

「今の雅樂家の総帥は、雅樂丹生うたにわおといってね。これが重樹氏の親父だ。ニワオならぬワニオとあだ名されている。鰐か鮫かは知らんが、とにかく何にでも食いつくからね」

「やばそうな人だね」

「いや、ワルじゃないよ。温厚で腰が低い人だ。純粋にビジネスが好きで、危ない橋も渡ってきたが、やむを得ずそうしてきたという感じかな。ただ無学な田舎者という劣等感があったから、重樹氏をあらゆる面で一流にしようとしたんだろうね」

 僕はふと父を思い出していた。父にも、息子に対するなにがしかの思いがあったはずだ。なのに僕は、それを裏切ってしまっている。

「おい、どうした。急に黙り込んで」

「いや、びっくりしすぎていたんだ。それじゃ、重樹氏は東大卒なんだね」

「違う。重樹氏は黎都大学れいとだいがくに進んだ」

 黎都大学は東京の私立大学で、学費だけは超一流との評判だった。つまり富裕層の子弟向けの人脈づくりと箔付けだけが取り柄の大学とされていた。しかし葉賀は、そうではないと言う。

「政治哲学部だけは、違うんだよ。カネ以外に相応の頭脳がないと入学できない。国家運営を担う人材の育成が謳い文句でね。政治家、官僚、大企業の幹部候補をどんどん送り出している」

 政治哲学部の出身者は実に結束が固く、コネと財力にものを言わせ、このままでは国家中枢を占拠する勢いだと葉賀は言った。

「融資先の社長によれば、秘密結社みたいになってるって」

 僕には、そんなことはどうでもいいように思えた。葉賀にもそれは伝わったようで、彼は唐突に話を切り上げた。

「卒業後の重樹氏については知らないが、結論としては重樹氏は信頼できると思うよ」

 僕は受話器を置くと深呼吸をした。心は固まった。

 翌日、僕は雅樂重樹に電話した。

「ご提案、お受けします」

「ありがとうございます。では土曜日の20時に自宅までご足労下さい。詳しい説明をいたしましょう」

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