2:1990年8月までのこと -謎の人物との出会いー
1990年1月から株価が下がっていった。不況が来たと警鐘を鳴らす者もあったが、世間は浮かれた気分のままだった。
その年の春から
雅樂は社長の知人の息子で、しばらく不動産業を学ぶために出社すると聞かされた。彼は、
二人は出社しても、たいてい会議室にこもったままだった。密室での淫らな行為を想像する社員もいたが、僕にはそんな感じはしなかった。ただ何かに真剣に取り組んでいるという緊迫感だけが伝わってきた。
その頃から僕の債務の返済は滞りがちになっていった。会社のカネに手を付けそうな自分が怖かった。
そういった様子が由衣子にも勘付かれたのだろう。彼女は次第によそよそしくなり、言葉はさらに刺々しくなっていった。そもそもはお前のせいだと毒づきたくなったが、さすがに我慢した。このまま饐えた匂いのする関係が、ずるずると続くのだろうなと僕は自嘲した。
7月に入って、僕にだけ管理が厳しくなったように感じた。気のせいではなく、しばらくして僕は突然、庶務部門に異動になり常に上司に監視されるようになった。着任した日に上司がぽつんと発した一言が忘れられない。
「身を慎むように」
会社が、僕の債務の状況を知っているのは確実だった。全身から力が抜けてしまい、業務に熱が入らなくなった。
8月の末、僕は人事から呼び出しを受けた。面談室に入ると、机の向こうに人事部長と雅樂が並んで座っていた。
「雅樂さんが話があるそうだ。なお当社としては関知しないことなので、私に質問などしないでほしい」
立ったままの僕に人事部長は一方的に言うと、部屋から出て行った。雅樂は穏やかな表情で僕に席を勧めた。
「単刀直入に参ります。平野さん、あなたには相当な額の債務があり、返済に困っていらっしゃいますね。実は会社に債権者と思しきところから、ちょくちょく電話が掛かってきていましてね。あまり素性の良くないところからも」
僕は素直にうなずくしかなかった。
「会社には内緒にしておきますので、その総額と内訳を教えていただけませんか」
首筋を汗が伝った。僕は観念した。
「概算で車のローンが400万、クレジットが250万、貸金が150万あります。合計800万ほどですが、返せると思います。これから給料もボーナスも上がるでしょうし」
雅樂は困惑を隠せないようだった。
「いい時代は終わったのですよ。日本経済は危険水域に突入しつつあります。特にこの業界はとんでもないことになります。あなたの返済プランは机上の空論になるでしょう。ところで、なぜそのようなおカネが必要だったのですか」
僕が正直に話すと、雅樂は深く考え込むような素振りを見せた。
「女性ですか。まあ、その件はさておき、ひとりの先輩として申し上げますが、この際、転職されてはいかがでしょう」
僕は目を剥いたが、雅樂は噛んで含めるように続けた。
「この会社で、あなたに対する心証はいいとは言えなくなっています。その上、居座っていても返済に行き詰まるおそれが十分にあります。ご実家が裕福であれば、何とかなるでしょうが」
僕は首を横に振った。
「平野さん、そうであるなら手遅れになる前に決断された方がいい。今なら、いいところを紹介できます」
僕は雅樂の真意を測りかねていた。彼は構わず続ける。
「岡山県のある所で臨時職員を極秘で募集しています。これが要件が厳しくて、ごく若く、不動産業あるいはリゾート開発の実務経験があるか、または専門的に学んだ経験のある者、さらに理想を言えば先祖が倉吉藩士だった可能性がある者、云々」
僕は呆気に取られていた。
「まさに僕のことのようですが、それにしても変な要件ですね」
雅樂は苦笑していた。
「倉吉藩士の件は私にも理解不能です。依頼人に質問しても言葉を濁されました」
「どこの求人なんですか」
「あなたが決断されない限り、それは申し上げられません。依頼人との約束です。ただ採用条件はお伝えできます」
任期は10月から今年いっぱい、つまりたった三か月。週休二日制で月給は10万円。業務はリゾート開発計画の策定ということだった。僕は即座に断ろうとしたが、雅樂に最後まで聞くように制された。
「なお宿舎は賄い付きで最低限の家具と家電製品は揃っており、家賃は無料とのことです。そして任期後には報奨金一千万円が支給されます。それだけあれば残債はすべて返して、余裕をもって新たな人生をはじめることができます。もちろん、その後の就職については私が責任を持ちます」
僕の心は揺れ動いていた。
「でも僕みたいな素人が、そんな計画を立てられるでしょうか。世の中には専門家がいるでしょうに」
「専門家は法外なカネを取るくせに、地域の実情を無視したプランニングしかしないと依頼人はおっしゃっていました。実際に現地に住んでくれる人の方が、独自性のある立案ができるという考えをお持ちのようです。いずれにしても今週中にはお返事を下さい」
僕は思い切って訊いた。
「これは会社の差し金でしょうか」
雅樂はゆっくりと答えた。
「そうではありません。個人的に一肌脱げる機会だと思ったまでです。同郷の方ですから。実は私は境港の出身なのです。故郷が懐かしいですよ。平野さんは、いかかですか」
反射的に言葉が口を衝いて出た。
「故郷なんか嫌いです」
雅樂は無言で立ち上がると、うな垂れた僕を見ないようにして静かにその場を去って行った。
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