19:10月12日 夕方のこと -追い詰められる仔犬ー
宿舎でのんびりと夕食を待っていると、半鐘を打ち鳴らす音が響き渡った。何事かはわからないが、ともあれ交番まで急がなければならない。僕は速足だったが、小作屋や芝刈屋の男たちは懸命に駆けていく。皆、鍬や鎌など武器になる物を手にしている。猛獣でも現れたのか。
交番に着くと、近くの松の太い枝に信士が猿のように腰かけていた。猟銃を舐めるようにして、集まった男たちに度外れて大きな声で言う。
「今、追い詰めている。あそこの中だ。先週、逃した奴に間違いない」
二十メートルほど先の草むらの周りを山野瀬、石切屋保良と忠良、小作屋永吾が取り囲み、長い棒で背の高い草をなぎ倒していた。その中で何かが逃げまどっている気配が伝わってくる。
信士は舌なめずりをしながら様子見していたが、突然、枝から飛び降りた。
「けっ、早くしろよ」
じれったそうに言うと、たまたま目の前にいた芝刈屋杉夫の胸倉をつかんで凄んだ。
「てめえが草ぼうぼうにしているから手間取っているんだ」
汚れた防蜂服姿の杉夫は、言い返すこともせず小刻みに震えていた。石切屋伸良が険悪な雰囲気を和らげようとしたのだろうが、突拍子もないことを言う。
「機関銃でもあれば簡単なんだがな」
信士は軽蔑の眼差しを彼に向けた。
「殺った実感がないだろ。一撃の手ごたえが何とも言えねえんだよ。とはいえ今日は俺の出る幕はないかもしれんな」
僕は寒気を覚えていた。その時になって信士は初めて僕がいるのに気付いたようだが、敢えて無視する態度を取っていた。
山野瀬が叫んだ。
「出たぞ」
草むらから飛び出してきたのは黒い仔犬だった。耳も尻尾もぴんと立って、いかにも敏捷そうだ。仔犬は人の姿を認めると方向転換しようとして、わずかに動きが鈍った。
その背中を目がけ、仕立屋静作が柄の長いハンマーを打ち下ろした。僕は顔を覆ったが、犬はすんでのところでかわしていた。静作は勢い余って地面に突っ伏した。
そのありさまに信士は大笑いした。
「てめえはアイロンでもかけていろ」
仔犬は東に向かい道を駆けて行く。
「まずい。逃がすな」
皆、口々に喚きながら一斉に追いかける。僕もついて行くしかなかった。
仔犬は最初の内は快走していたが、すぐに後ろ脚を引きずるようになった。草むらで誰かの棒に傷つけられたようだ。どんどん僕たちとの間は詰まっていく。
芝刈屋杉夫が汚名返上とばかりに、道端の石を力任せに投げつけた。それは仔犬の横腹をかすった。一瞬、犬は立ち止まったが、キャンとも言わずこちらを向いて威嚇してきた。幼いながらよほど剛毅なのだろう。
再び逃走をはじめた仔犬に、スコップや刃物が投げつけられた。仔犬は先ほどの経験から背後に注意を集中していたのだろう、それらを避けきった。本当に見事な動きだと感嘆したが、ますます走力は落ちていく。遂に小作屋吾一に追いつかれてしまった。
彼は何の躊躇もなく、鍬を仔犬の頭めがけて振り下ろした。僕は心臓が止まるかと思ったが、仔犬は素早く横に跳び難を逃れた。鍬は道をセメントで補修した部分に当たり柄が折れ、刃が勢いよく追手の中に飛んで行った。
怒号が吾一に浴びせられた。
「危ないじゃないか」
「新品にしろ。爺さん譲りの鍬なんか使うな」
その隙に仔犬は、必死に遠ざかって行こうとしていた。割合にのんびりと構えていた信士が、とうとう「けっ」という声を発し集団の後方から猟銃を構えた。前方に人がいるのに、まったく意に介していない様子だった。腕の良さを見せつけたいというより、弾が人に当たっても何とも思わないのかもしれない。とにかく誰にも制止させないぞという強い意志が、全身に漲っていた。
信士は悠然と二発、撃った。十数メートル先で赤い血しぶきが宙に舞った。さしもの仔犬も甲高い悲鳴を上げた。弾丸が左肩と右前脚の肉を削り取ったようだ。しかし致命傷ではないと見受けられた。
狙撃の失敗を目の当たりにして皆、唖然となった。信士も首を捻り、独り言をもらしていた。
「おかしい。まさか避けたのか」
仔犬は血まみれになりながらも、這うようにして逃れようとしていた。僕は名状しがたい感情に突き動かされ、仔犬に向かって全力で駆けだした。絶対に救ってやらなければならないと思った。その僕を山野瀬が追い抜いていく。その手に拳銃が握られているのを見て、僕は絶望的な気持ちになった。
仔犬はとうとう道端で腰砕けになった。その前に山野瀬が立ちはだかり怒鳴った。
「信士さん、本官が止めを刺してよろしいか」
その隙に僕は仔犬に覆いかぶさることができた。改めて犬を見ると首輪はなく、狼の仔を連想させた。飼い犬でないことは明らかだった。特に左肩の銃創は深くて白い骨が見えそうだった。出血がひどく、意識が朦朧としているらしい。目は塞がりかかり、もはや座った姿勢すら維持しにくくなっている。
僕はすぐに取り囲まれ、罵声を浴びせかけられた。
「こら、そこを退けろ」
僕は頭を上げた。信士と山野瀬の銃口は僕に向けられ、他の者も凶器を振り上げていた。彼らの目は吊り上がり、顔付きには純朴さのかけらも見当たらない。前職でやくざを相手にしたこともあったが、まさか殺しはしないだろうという最低限の安心感はあった。しかし彼らの顔には、人殺しもいとわないと書いてあった。
僕は情けないことに全身ががくがく震え、声を出すこともできなかった。この状況をどのように収束させればいいのだろう。
クィン。その時、仔犬が僕にだけ聞こえるように鳴いた。賭けに出るつもりだとわかった。僕は突如として大声を上げながら仰向けになり、手足をばたつかせた。周囲が呆気に取られている隙に、仔犬は残る力を振り絞り、道と並行している涸れた水路に身を躍らせた。
信士と山野瀬が水路に向かい数発撃ったが、命中した気配はなかった。仔犬の姿は暗渠の中に消えたようだ。
「てめえ」
石切屋保良が僕を立たせ、平手で頬を張り掌底で左目を打った。僕は鼻血を噴き上げながら仰向けに倒れた。興奮しきった声で、てんでに喋っている声が耳に達した。
「農薬を撒いてやるか」
「バカ。ゴキブリじゃないぞ」
「あんたの嫁が病気になるぞ」
「じゃ、どうする。出口で待ち伏せるか」
「どこにどう繋がっているか、わからんぞ」
話は堂々巡りをしていた。いらついていた信士は、僕の襟首を掴んで無理やり立たせ、皆に問いかけた。
「こいつ、どうしたものか」
山野瀬が真剣な面持ちで言った。
「まさか死刑にはできないでしょ」
他に発言する者はいなかった。場が膠着しているところに御田島村長と室見川助役が駆けつけてきた。それを目にした信士は僕から手を離した。
村長が信士をたしなめた。
「手荒いことはしてはいかんぞ」
信士はそれには答えず、憤りの感情を自分の父親である助役に向けた。
「この村に犬を入れてはいけないということを教えていなかったのか」
助役の顔が強張った。
「いちいち教える必要が、どこにある」
信士は不貞腐れて押し黙った。僕はそのような掟があることに驚愕していた。その時分から誰からともなく、あの仔犬の能力を褒める声が上がっていた。
「信士さんですら撃ち殺せないほど、すばしこい奴だったな」
「わしらの内心を読み切ったような動きだった」
「普通じゃないぞ、あいつ」
無駄話はいい加減にしろとばかりに、村長は手で制する仕草をした。
「すごい犬かもしれないが、まだ小さくて深手を負っているんだろ。長くは保つまい。今日のところは酒でも酌み交わして、平野君と仲直りをするんだな。久吾屋さん、私のつけで頼むよ」
久吾屋未明は準備のため小走りに店に帰っていった。信士は猟銃を肩に担ぎ、残りの者を従えて歩きはじめた。小作屋と芝刈屋たちは、いつの間にか姿を消していた。村の隠された序列が垣間見えるようだった。
僕は列の最後尾に付いていた。この連中と飲むことを想像し、さらに仔犬の生死に思いを馳せて暗く沈んだ気分だった。救いは、鼻血が止まったことだけだった。
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