20:10月12日 夜のこと -奇怪な夢と仔犬との再会ー

 久吾屋の前まで来ると、僕を殴りつけた石切屋保良が別人のようにしおらしく声をかけてきた。

「大丈夫かい。本当に悪かった。気が立っていたんで」

 僕はむかついていたし怯えてもいたが、愛想笑いで応じた。

「鼻の骨と歯は、とりあえず大丈夫のようです」

「目が腫れているよ。済まなかった」

「三日ほどで治まるでしょう」

 店に入った僕たちは土間の真ん中にテーブルを寄せ集め、その周りに適当に陣取った。久吾屋未明が悪びれもせず言う。

「急なことなんで料理は遅くなりますが」

 ようやく猟銃を手から離した信士が、うんざりした顔になった。

「いつもの台詞だな。くそまずい飯なんか要らねえよ。とりあえずビール五本」

 その言葉が終わらない内に、てんでに酒類の注文が始まっていた。つまみは各自、店先の缶詰や乾き物を選ぶことになった。僕は賞味期限に気を付けながら炒り豆を取った。

 誰からともなく飲み始めたので、僕も遠慮がちにグラスを空けた。冷えていないビールが口の中の傷に沁みる。

 久吾屋六津が不愛想な態度で次々に酒を持ってくる。碧が姿を見せないので、僕は物足りなさを覚えていた。

 注文の声が途絶えたところで、僕は形だけでも謝っておくことにした。

「今日は本当にご迷惑をおかけしました。申し訳ございません」

 意外にも信士が握手を求めてきた。周囲に寛大さを見せようとしたのだろう。

「こちらこそ悪かったな。誰かが教えているものだと思い込んでいた」

 仕立屋静作がビールをがぶ飲みしながら上機嫌で言った。

「郷に入っては郷に従え、ということ。あんたも勉強になったろ」

 その後、いつも悪態をつかれている信士に盛んに同意を求めている。静作は酒が入ると、日常の出来事は全部忘れてしまえるのかもしれない。

 山野瀬が口をはさんだ。

「この村では犬を飼ってはいけないことになっておる。それどころか一匹たりとも入れてはいけないことになっておる」

 僕は恐る恐る訊ねた。

「でも野犬は、どこからでも入ってくるんじゃありませんか」

 山野瀬は米焼酎をちびりちびり飲みながら答えた。

「そうならないように信士さんや本官が見張っているんだよ」

 石切屋伸良が勇んで提案した。

「この際だから言うが、これからは村兵にも応援を頼んだらどうか」

 山野瀬はきっぱりとはねつけた。

「どこの世界に兵隊さんに犬の始末をお願いする奴がおるか」

 伸良は口をつぐんだ。

 僕も、この際だからと前置きして質問した。

「犬を嫌うのは昔、狂犬病が流行ったとかいう理由ですか」

 またしても仕立屋静作が諭すように答えた。

「そういう理詰めの問題じゃない。他所から来た人には、すぐにはわからんだろう。犬をここにおらせたら良くないことが起こるんです。昔からの決まりです」

 山野瀬が腰に帯びた拳銃入れを撫でながら、首を縦に振っていた。それまで無口だった信士が眉をひそめた。

「危ないから拳銃は外して来いよ」

 山野瀬は酔った勢いで言い返した。

「またあの犬が出たらどうします。並みの奴じゃないんですよ」

 石切屋忠良がぼそっと茶化した。

「あんたが仕留められなかっただけ。買いかぶり過ぎ」

 山野瀬よりも信士の方が目に見えて厭そうな顔付きになったが、皆、酔いが回っていて気にならないようだった。

 その後は犬のことは話題にならず、当たり障りのない世間話が続いた。僕は適当に相槌を打ちながら控えめに飲んでいたが、他の者たちは泥酔に近くなった。石切屋の兄弟に至っては土間に座り込み、各々一升瓶を抱えてラッパ飲みをしている。

 9時頃、ようやく会はお開きとなった。僕は久吾屋夫妻とともに千鳥足の男たちを見送りながら、久々にしげしげと店の看板を眺めていた。六本脚の蜥蜴を思わせる絵柄に尋常ならざるものを感じていた。

「久吾屋さん、これは何ですか。動物に見えるんですが」

 未明が空笑いした。

「瓢箪に決まっているでしょ。うちはひさご屋なんですから」

 僕は納得した振りをして空を見上げた。手を伸ばせば届きそうな雲が時季外れの北風に押されて、粘りつくように渦巻いている。僕はかすかに見える星に向かって、あの仔犬の無事を祈った。

 宿舎で冷めた夕食を摂ると、作業服のまま横になった。不思議な光景が目の前に広がってくる。

 そこは大きな洞窟の中だった。松明に照らされ岩肌が妖しく輝いている。地面には白装束姿の誰だか判然としない者が、身体を縛められ転がされていた。それはことによると僕なのかもしれない。

 周囲には同じく白装束をまとった大勢の者がいた。男たちは大きな和太鼓を一心不乱に打ち鳴らし、女たちは踊り狂っている。太鼓の音も踊り手たちが唱える呪文のような文句も次のように聞こえた。

 だんだんだいっ、だんだんだだいっだいっ、だんだんだいっ、だんだんだだいっだいっ。

 やがて髪を振り乱した、のっぺらぼうの赤い着物を着た女が現れた。女は岩の出っ張りから吊るされた、白と黒との斑模様の円い石盤を木槌で叩いた。まるで鉄琴のような音が響き渡り、人々の興奮は最高潮に達した。女は足元の泉に向かって祈りを捧げる。

 まもなく泉から姿が定かでない村の守り神が現れた。縛められた者は、その生贄だったのだ。

「助けてくれ」

 自分の悲鳴で目が覚めた。だんだんだいっという声が耳にこびりついていたが、実はそれは自分の心臓が鼓動する音だった。僕は悪夢を見たのだ。かなり冷え込んでいるのに全身、汗でびっしょりだった。

 やおら起き上がると外に何かの気配を感じ、僕は縁側の戸を開けた。しょぼしょぼと陰気な雨が降っている。生垣に囲まれた狭い庭の片隅で、闇にまぎれて黒い何かが僕を見つめていた。サンダルを履いて怖々近寄ると、あの仔犬が待っていた。

 仔犬は当然、衰弱している様子だったが、傷は早くも塞がりかかっているように見えた。凄まじい生命力の持ち主なのだろう。不思議なことにべったり付着しているはずの血のりは消えていて、格別に腹を空かせている様子もない。誰かが世話をしたのだろうか。そんなことがあろうはずがないのにと僕は首を捻るばかりだった。

 僕はひざまずき仔犬の頭を撫でた。ごわごわした毛の下に優しい手触りの毛が密生している。

「早く良くなれ。いや、それよりも一秒でも早く村を出るんだよ」

 少なくとも信士や山野瀬は眠りこけているはずだった。返事の代わりに仔犬はフーンと息を吐いた。僕こそ一刻も早く村を去れと言っていた。

「僕はカネを返さなくてはいけない。ここで少しだけ辛抱していれば、それができるんだ」

 仔犬の茶色の眼が、じれったそうに動いた。そんな約束を信じているのか。自分の命や人生を粗末にしないでと訴えかけていた。

 僕が困った表情になったのを案じたのだろう。仔犬は尻尾を盛んに振り、心配しなくていいよ、自分が何とかするからと言っていた。

 ちびなのに生意気だなと僕は笑いたくなった。確かに傷つき弱ってもいるが、あくまで元気で気丈そうだ。頸回りの毛は特にふさふさしていて、ライオンのたてがみを思わせる。よくよく見ると面構えは、昔よくいた毬栗頭の悪戯っ子のようだ。

 急に仔犬の耳がせわしなく動いた。久吾屋の誰かが目を覚ましたのかもしれない。仔犬は名残惜しそうに脚を引きずりながら、闇の中に姿を消した。かわいそうに、傷ついた身で僕に何事かを伝えるために会いに来てくれたのだ。

 ふと名前を付けてやろうと思い立った。段々村にちなんでダンはどうだろう。僕は小さくダンと呼んでみた。いい名前だと自分で満足していた。

 ダンの去った跡に何かが落ちていた。拾い上げると血のりと黒い毛が付着した絆創膏だった。ダンの身体に貼られていたものに違いない。それは僕が余分のタロウにあげたものと同じ製品だった。


 












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