38:12月30日 夜明け前のこと -拉致された碧ー
妙子を置き去りにして宿舎に帰った。玄関口に「領収書在中」と表書きされた速達があった。六番目の報告書に対する返信だ。開封すると「霊犬・弾號伝説」と題されたコピーが入っていた。筆者は西山良平という人だった。以前、耳にした碧の小学校時代の教師と姓が同じだ。同一人物かどうか確かめようとしたが、碧は村内の配達を済ませるとまた琴浦町に赴いたという。今日は帰りが遅いらしい。目一杯、用事を頼まれているのだろう。
「霊犬・弾號伝説」に登場する犬は、偶然にもダンと名前が同じだった。僕はダンのことを気にかけながら読み進めた。武士と犬が力を合わせ、怪物と死闘を繰り広げる様子が描かれている。僕は、知らず知らずの内に弾號とダンを重ね合わせていた。
しかし他には情報はなく、「全容はおおまかには判明してきました。あとは動かぬ証拠をつかむだけです。何があろうと安心してください」とのメモが添えられているだけだった。
妙子に聞いた人身御供の話は半信半疑のままだったが、雅樂はそれが現実に起こることだと示唆しているように思えた。突然、ある危惧が脳裏をよぎった。もし妙子との話が盗聴されていたのであれば、トラックでの碧との会話もどこかに筒抜けだったのではないか。
雪が舞いはじめた。
ふと胸騒ぎを覚え目覚めると、午前三時を過ぎたばかりだった。急に妙子のことが気がかりになった。役場が消灯されていなければ、そこで倒れたままなのではないか。どてらを羽織り、降りしきる雪の中を歩いた。役場の灯りは消えていた。ほっとしたが、今度は電気を切った後で自ら命を絶ったのではないかと最悪の想像をしてしまった。けれども確かめに行く気力は出なかった。
戻ろうとすると、前方から白い人影が近づいてくる。寒さのせいではなく、全身が凍りついた。
「逃げなくていいのよ、マモルちゃん」
その正体は、血のように赤い水干を着た柘榴井三月だった。懐中電灯を首に吊るし和弓を携えている。これでは雪男に遭遇をした方がましだ。懐中電灯の光で顔の陰影が異常に強調され、魔物じみて見える。
「こんな時間に何をしてるの、マモルちゃん」
「役場の電灯を消したかどうか、心配になりまして」
「あはは。もうすぐ朝じゃないの。放っておけばいいのに。気が小さいのねえ」
心の底から嘲った言い方だったが、怒る気もしない。ただただ気味が悪く早くその場を逃れたかったが、三月の機嫌を損ねてはならないと思い直した。できるだけ自然に振る舞わなければ、何をされるかわからない。
「お籠りをされていたんじゃありませんか」
「これから大事な神事がある。マモルちゃんにもっと近づきたいけれど、今はできないのよね」
僕は吐き気を催しながらも、以前に夜に出歩くことがあると漏らしていたのを思い出していた。下手に視線を逸らすことができないので、どうしても弓に注目することになった。またダンが現れたのだろうか。
三月は、僕の些細な仕草にも敏感だった。
「私、弓の使い手なの。男より強く引ける」
碧が語り、霊犬伝説でも描かれていた白羽の矢のことが頭に閃いた。これからそれを射るのだろうか。すると何もかも本当のことなのだろうか。頭が混乱してきて、動揺を隠すのが難しくなってきた。
突然、三月は懐中電灯で自分の顔を照らした。全体が真っ白に塗られ、唇と目尻が引きつったように強調されている。だらしなく開いた口から黄色い歯が覗いた。
「ねえ、きれいに化粧できたでしょ」
「ええ、おきれいですよ」
そう言わざるを得なかった。三月はにたりと笑い、子供のように喜ぶ仕草を見せた。
「マモルちゃん、そそるよ」
さすがに我慢も限界に達したので、ほとんど後退りしながら宿舎に帰った。それからは蒲団に入っても、うとうとするだけだった。ややあって久吾屋の方で鋭い物音がしたが、風の悪戯だろうと思った。
夜明け前、久吾屋六津の叫び声がかすかに聞こえた。その直後に未明と碧であろうか、屋外に慌てて人が出る気配がした。不気味な予感に怯えつつ、僕もどてらを羽織り外に出た。ごく近くも見通せないほど雪が降りしきっている。
久吾屋の前では一家の三人が、呆然と屋根を見上げていた。夫妻は寝間着のままだが、碧はパステルピンクの作業服に着替えている。視線の先には、屋根瓦を突き破って刺さっている長い白羽の矢があった。
僕は、植え込みに隠れて事態を見守ることにした。ほどなくして信士と山野瀬が、ライトバンで駆けつけてきた。山野瀬は荷台から折り畳み梯子を出して、身軽に屋根に上がった。矢に結んである紙を開き、そこにある名前を読み上げる。
「ひさごやあおい」
碧は放心して立ち尽くしていたが、山野瀬が下りてくると、我に返り取り乱した様子になった。慌てて背後から信士が羽交い絞めをすると、山野瀬は何のためらいもなくその腹を警棒で打った。地面に突っ伏した碧は、山野瀬によって淡々と手錠と足枷で拘束された。
信士は、痛々しい姿の碧を舌なめずりするように見下ろしていた。
「こうなると、もったいねえな」
山野瀬が釘を刺した。
「今さら遅いですよ。変な気だけは起こさないで下さいね。村長から念押しされたでしょ」
「けっ、わかってるよ」
碧は咳き込みながらも、しきりに弱々しく両親の名を呼んでいた。けれども未明も六津も声すらかけず、無表情で木偶の棒のように立っているだけだ。それどころか信士に促されると、碧を荷台に放り込む手伝いまでした。信士が助手席に座ると、ライトバンは山野瀬の運転で柘榴峰の方に向かった。
僕は怒りに震えていた。信士らに対してはもちろんだが、傍観していただけの自分にも憤っていた。しかし碧を救出する名案が湧いてくるはずもなく、また宿舎に戻るしかなかった。
夜が明けると未明が朝食を運んできた。つい先ほどの出来事はなかったかのような態度だ。
「私ども夫婦は、これから明日のお祭りのために柘榴峰に詰めることになります。急なことですが碧も今年は呼ばれたので、平野さんのお世話ができなくなりました。店は閉めますが、勝手口からは入れるようにしておきます。食べ物はご自身で見つくろって下さい」
僕は何食わぬ顔で答えた。
「わかりました。残り二日間は代金を払います。カウンターに置いておきますよ。お釣りは要りません」
碧が張り切って仕入をしたので、いろいろな食材が揃っているはずだった。
「それではこれで」
未明はすぐに立ち去ろうとしたので、僕は慌てて呼び止めた。振り返った未明は、少し迷惑そうな顔だった。
「どうしました」
「これで久呉屋さんとお会いできるのも最後ですね。本当にありがとうございました。皆様にもよろしくお伝え下さい。ここの鍵と役場の制服は、玄関のところへ残しておいてよろしいですか」
未明は、ばつが悪そうに言った。
「ああ、そうでしたね。こちらこそ十分なことができず、失礼しました。鍵と制服は、それでよろしいです。お元気で」
なぜか謎めいた微笑を浮かべ、未明は宿舎を後にした。間もなく雪が止むと、久吾屋夫妻が大きなバッグを持って柘榴峰に向かうのが見えた。
久吾屋は無人となった。これまでも電話をする機会はあったが、碧に迷惑が及ぶ気がして敢えてしなかった。まずは雅樂と連絡を取ろうとして、恐る恐る店先の電話をかけたが通じない。故障しているのだろうか。
不安の大波が、一気に襲いかかってきた。仕方なく重い気分で役場に向かおうとしたが、足は勝手に柘榴峰の方に僕を連れていく。かすかに日が差してきたが空気は硬く冷たい中、新雪を踏み締めながら用心深く進む。峰に近付くにつれ、不思議な光景が目に入ってきた。
頂上近くまで連なる何十もの鳥居のすべてに白い物が張りつけられ、風にひらひら揺れている。さらに接近すると、それは白装束だとわかった。両袖は真横に伸ばされ、笠木に留められている。まるで磔にされた人間のようだ。
麓に着いたが、登り口は固く閉ざされていた。そこで踵を返し、とぼとぼと役場への道をたどる。あまりに静かすぎて廃村に迷い込んだような錯覚に陥った。
役場に入ると、すぐに電話の受話器を上げたが無駄だった。すべての電話の機能が停止していた。
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