12:10月1日 午後のこと -謎の教授が残した色紙ー

 久吾屋は昔の駄菓子屋のような佇まいで、軒下には縦長の木の看板が吊り下げられていた。そこには黒一色の下手な絵が描かれていた。その絵は瓢箪の形をしており、都合六本の脚のようなものが付いている。まるで太り過ぎの蜥蜴のように映った。

 一瞬、奇異に感じたが、すぐに印象は薄れた。

 中に入ると土間に置かれた木の棚に、菓子や缶詰や生活用品が申し訳程度に並べられている。その奥の今にも壊れそうなテーブルに、室見川助役と僕は陣取った。

 おかみさんの久吾屋六津が出てきた。愛想笑いこそしているものの、目は虚ろで動作は鈍い上に声に張りはなく、とても商売人には見えない。

 助役は真っ先に熱燗を注文した。僕は早くも驚かなくなっていた。

「平野さんも一杯どうですか。もう睡眠薬は入れませんから」

 僕は丁重に断った。助役も無理強いはせず、鹿肉丼を頼んでくれた。

「猪、鹿、蝮、山菜は仕入がただですからな。どんどん食べて下さい」

 僕は慌てた。

「蝮だけは勘弁して下さい」

 助役は声を上げて笑った。

 食事が終わると助役は、主人の久吾屋未明を紹介してくれた。彼は枯木のように痩せていて、肌はかさついていた。取っつきにくさは感じたが、人懐こい表情は垣間見せる。一応は村外の人間とも接触はあるようなので、他人とも最低限はうまくやっていける人なのだろう。

「では平野さん、今日は荷物の片付けがあろうから、これで退勤して下さい。久吾屋さん、後はよろしく頼むよ」

 こう言い残して助役が立ち去ると、未明は僕を店の裏にある離れに伴った。そこは古びているが、予想に反して安普請ではなかった。少なくとも僕の実家より住み心地は良さそうだ。六畳、八畳の二間にタイル張りの風呂と簡易水洗のトイレがあった。家具や家電、寝具も揃っている。

 僕の満足そうな様子に、未明は安堵したようだ。もともとは先代の村長の御田島全蔵、つまり御田島丞介の父親が、旅館として建てさせたものだという。

「部屋代と食事は村が負担すると伺っています。ただ、それ以外はお代をお願いしますね」

「もちろんです。買物は、ご主人の店ですればいいのですね」

「そうですが、店に無い物が多いので、その時は娘の碧に言いつけて下さい。あいつが取り揃えてくれます。ただし手間賃は頂戴します。村の皆さんにもそうしてもらっていますので、どうかご了承下さい」

 異存のあろうはずはなかった。

 奥の八畳間に入ると、違い棚に変色した色紙が飾ってあった。そこには「黎村にて 眠れる国を幻視せり 三蔵門彰春さんぞうもんあきはる」と毛筆で認めてあった。黎都大学、凍眠国家、錬堂彰春教授がすぐに頭に浮かんだ。三蔵門とは、錬堂教授の雅号だろうか。

 僕は何気ないふりをして訊いた。

「この色紙はどなたが書いたのですか」

 未明は何のこだわりもなさそうだった。

「ああ、それは最初のお客さんが書かれたものです。というより、その方のためにここを造りました。三十年ほど前でした。先代の村長のお知り合いで、大学の先生ということでした。ひと月近く、亡くなった両親がお世話をしました。お帰りになる際に、父が記念にとお願いして書いてもらったんです」

「何をしに来られたんでしょう」

「この村を研究するためということでした」

「どんな方でしたか」

「今のわしより、もっと細くて背が高い方でね。でも弱々しい感じはなく、骨太で軍人さんのようでした。たいてい黒眼鏡にマスクをしていらしたので、お顔は憶えていません」

「今の村長さんもお会いしているのでしょうね」

「さあ、それはないでしょう。あの頃、丞介さんは東京にいらっしゃったはずです」

 未明は、それ以上に知っていることもない様子なので質問は差し控えることにした。しかし雅樂の予想どおり、この村と錬堂教授が関係ありそうなことがわかり、僕は得意な気分になった。

 未明は時計を一瞥した。

「用事があるので、これで失礼します。掃除も済ませてありますから、どうかゆっくりして下さい。今日は、手前どもからのサービスということで冷蔵庫にはビールも冷やしてございます」

 未明は立ち去ろうとしたが、ふと僕は肝心なものがないのに気付いた。

「久吾屋さん、電話はないのですか」

 未明は不思議そうな顔になった。

「勤め先はすぐそこですし、頼み事はわしらに言ってもらえれば済みますが」

 公衆電話すらないと知り、僕は焦りを覚えた。

「実家と連絡を取ることがあるかもしれませんので」

「どうしてもという時は、うちの電話を使って下さい。傍で時間を計って、実費を請求いたします」

 要するに監視するという意味にしか取れなかった。

 未明が去った後、疑念が膨らんできた。明らかに僕に外部と関りをもってほしくないのだ。これでは体のいい囚人ではないか。僕は雅樂の洞察に感心するとともに、彼を少し恨む気持ちになった。

 しかしビールを飲むと、心がほぐれてきた。監禁されているわけではないし、アルコールを嗜むこともできる。給料ももらえるはずだし、当面の生活に不自由はなさそうだ。何を恐れる必要があろう。

 とにかく精一杯いい計画を立てれば、それでいいのだ。年末までの辛抱だ。その後は債務をすべて返して、新たな人生に踏み出そう。こう考えると不安は薄れ、かえって意欲が湧いてきた。

 僕はテレビをつけた。三つのチャンネルしか映らなかったが、気晴らしには十分だった。僕は幼児番組をぼんやり見続けた。恐竜の着ぐるみたちが踊っていた。それはまったく現実的ではないのに、現実感をもって迫ってくるように感じられ、自分でも奇妙に思った。

 夕方、濃い緑色の作業服を着た、ショートカットの若い女性が食事を届けに来た。

「久吾屋碧です。これからお世話をしますので、よろしくお願いします」

 少しかすれた声だった。彼女は背は低めだったが、豊かな胸と尻は作業服でも隠しきれていなかった。大きめの鼻と口が活発そうな印象を与えている。小さめの眼には、はっとするような輝きがあった。

 目が合った時、彼女は少し動揺するような素振りを見せた。僕の背筋には電気が流れたような気がしたが、その時は、その意味を理解できなかった。

 配膳を終えると、彼女は逃げ腰になった。僕は声をかけた。

「食べたら食器はどうすればいいですか」

 碧は早口で答えた。

「外に出しておいて下さい。洗わなくていいですから」

 彼女が立ち去った後、未明がねずみ色の作業服を二着、持ってきた。

「村長の奥さんから、ことづかりました。明日からこれで出勤するようにとのことです」

 それは新品ではなかった。室見川信士のお下がりだったら厭だなと思った。


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