最終章:2001年4月のこと ー奇跡の超犬ー

 うららかな日曜日だった。碧は二人の小学生の子を連れて、自治会の親睦旅行に出かけていた。

 昼下がり、僕は居間のソファに寝っ転がって雑誌を読んでいた。ある精神科医はこう書いていた。「リストラに怯える無能な人々の相談が増えている」

 ある政治家はこのようにインタビューに答えていた。「思想や言論や行動を規制しなくても国民の生き方さえ規制すれば、自ずとすべてが規制されるのですよ。この生き方しかないと悟ってもらうことが大切です」

 またある経営者は次のように発言していた。「企業にとって売上なんかどうでもいいんです。まずはコストダウンですよ」「人員整理は企業の純化を図るために必要です」「経営者は人的ネットワークの上に乗っかっていればいいんです」

 凍眠国家論は日本を骨の髄まで侵していることが伝わってきて、虫酸が走った。雑誌を捨ててしまおうかと思った時、囲み記事が目に留まった。それによるとシンガポールで謎めいた日本人投資家グループが、目覚ましい成功を収めているという。リーダーはウタマロと名乗り、伴侶と思しきキョウコという女性そしてソンペイズと称する四人組とチームを組んでいるという。

 急に家でごろごろしているのが、もったいなく思えてきた。カップ酒を手に国道を渡り、防潮堤と消波ブロックを越えた。そこは小さな岬にはさまれた湾に面している砂浜だった。他に誰もいない。流木に腰を下ろし海を眺めながら酒を飲み終えると、うつらうつらとなった。

 はっと目を見開くと、モーターボートが左手の岬の先を回って、こちらに向かって来る。無謀なほどの速度でどんどん迫ってくるが、乗っている二人の顔は何かで覆われていて確認できない。不吉な予感がしたが、魅入られたかのように身体が動かなかった。

 ボートは僕から少し離れた所に荒々しく乗り上げると、二人は降り立ち僕の方に歩みはじめた。両人ともニット帽子を目深にかぶり、スモークゴーグルと黒いマスクを装着している。 

 二人は、ようやく立ち上がった僕の前で止まった。ボートを操縦していたゴルフウェア姿の男が、僕を舐めるように見た。

「久しぶりだな」

 紛れもなく信士の声だった。隣の高級そうなスーツを着た男が絞りだすように声を発した。

「錬堂彰春という者だ。君と話すのは初めてだが、姿を見たことはあるだろう」

 僕はそれには答えなかった。

「何の御用ですか」

 信士が「けっ」と吐き捨てた。

「てめえと化け犬のせいで、こんな具合になったんだよ」

 やはり追跡した時、僕の顔は見られていたようだ。信士はゴーグルとマスクを外し、僕の足元に投げつけた。僕の目の前には、鼻が陥没し口元が大きく歪んだ顔があった。

「両腕、両脚は作り物だ」

 錬堂が大きくうなずいた。

「私もだ。顔はもっとひどいことになっているがな。でも近頃の技術には驚嘆するよ。こんな身体でも女子供の頸を絞めるくらいならできるだろう」

 僕は悲鳴を上げるところだった。もうすぐ碧と子供たちが帰る時間だった。僕は駆けだそうとしたが、信士が前に立ちはだかり拳銃をつきつけてきた。

「この距離なら外しようがねえな」

 拳銃は偽物らしくも見えたが、本物でないと断言できなかった。

「撃つつもりですか」

 信士は、けらけらと笑った。

「死んだら辛くも悲しくもねえだろ。まずは、てめえのガキをいたぶってやる。碧は使い古しだが、ひと晩くらいならかわいがってやろうか」

 僕の全身を憤怒が満たしたが、頭の中は真っ白になり取るべき行動が思いつかない。

 その時、叫び声が耳に達した。国道上の虚空に次々に五つの人影が現れたかと思う間もなく、防潮堤を越えて消波ブロックの上に音を立てて落下した。全員が黒ずくめの服装だったが、一人のシャツはずたずたに破れ全身が血まみれだった。五人ともぴくりともしない。 

 錬堂も信士も何事かと振り向いた。海水が不自然に引いていくのが僕の眼に入ったが、その意味を考えている暇はない。僕は手にしていた空の酒のカップを、隙ができた信士のこめかみに叩きつけた。

「てめえ」

 うずくまった信士の手から拳銃を取り上げると海に投げ捨て、消波ブロックを跳び渡って防潮堤の上に達した。錬堂と信士は追いすがってきたが、消波ブロックの隙間に義足がはまって動けなくなった。

 海水はなおも引いていたが、突然、湾の中央が盛り上がったかと思うと大波となって浜に襲いかかってきた。波は以前に飼っていた犬の形をしていた。僕の身体は、恐怖と懐かしさのあまり硬直した。

 大波は錬堂と信士と倒れたままの五人組を巻き込み、沖に運んでいく。その先には小さな漁船が幻のように浮かんでいた。それには老人と若者が乗っていた。亡くなった祖父と父のように思えてならなかった。すぐに漁船は七つの人影とともに海に溶けるかのように消えていった。

 僕は必死に走った。家の近くの空き地で中腰になった碧が、泣き叫ぶ娘を抱きしめていた。碧は僕に気付くと声を絞りだした。

「子供が連れて行かれそうになったの」

 僕は言った。

「もう心配ない。そいつらは海で溺れた」

 碧は不思議そうな表情になった。

 息子は立ちつくしたまま、山の方を眺めている。

「僕、見たんだ。馬みたいな大きな犬が、風のように走ってきて悪者をやっつけたんだ。体当たりして蹴飛ばして、最後のひとりに噛みついて振り回した。みんな海の方に飛んでいったよ。犬は山の方へ戻っていった。ねえ、あんな犬を飼おうよ」

 僕はうなずくと万感の思いを込め、妻子を抱き寄せた。


「付記:その後のこと」

 事件の生存者の内、御田島妙子、柘榴井衛門、小作屋吾一と汐里、芝刈屋朔子、石切屋保良と忠良の社会復帰した後のことは不明である。

 戸田太郎はシンガポールに渡り、雅樂と活動をともにするようになった。

 いつの間にか段々という地名は地図から消え、盆地だった所は柘榴湖という湖になっている。そこに生体内常温核融合反応をエネルギー源とする大型生物が棲息するとの情報が流れたことがあるが、当然ながらフェイクニュースとされた。

 現在、旧段々村域は在日米軍の管理下にある。周辺は封鎖され、上空も飛行できない。


          「だんだん太鼓 ー超犬、再びー」 了

 





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