30:12月10日のこと -ダンの警告ー

 雅樂の絶大なる支援のおかげで、ようやく「段々村リゾート開発計画書・第一次案」が完成した。A4判で五十ページにも及ぶ、休日返上で仕上げた力作だ。

 昼過ぎに僕は室見川助役と共に村長室に出向き、恭しく御田島村長に計画書を提出した。

「お待たせいたしました。どうかご検討の上、不備等がございましたらご指導を賜りたく存じます」

 村長はどこか憔悴した感じだったが、計画書を読み進めるにつれ引き締まった顔付きになっていった。しきりに「ほう」と声を上げる。評価されているのかいないのか、僕には判断ができず不安が募るばかりだった。もし全面的にやり直しを命じられたら、お手上げだ。

 村長は、ゆっくりと口を開いた。

「これは、本当に君が作ったのか」

 僕は、ここで崩れてはならないと腹に力を込めた。

「そうです。大学では、リゾート開発を専攻していましたから」

「それは知っているが、恐れ入ったものだね。黎都大学政治哲学部の出身者でも、このレベルの仕事ができる人間は、ほとんどいないだろう」

 僕は見抜かれたのかと冷や汗をかいたが、その言葉に深い意味はなさそうだった。村長は助役に計画書を渡した。

「ざっと目を通して下さい。プランがさらに練り上げられていて、おまけに投資計画、収支予測、現行法の改正点まで付け加えてある。その上に客にカネを融通し回収する仕組みまで提案してくれているよ」

 助役は拾い読みをしたが、今一つ乗り気になれないようだった。

「わしには難しいことはわかりませんが、おカネや法律の件は何とかなるにしても、問題は琴浦町の連中ですな。はい、と簡単に言ってくれるでしょうか。山を削る、海岸を人工ビーチにする、今の住宅地をぶっ潰す、どれも説得が難しそうですな」

 村長は助役を見すえ、自信ありげに言った。

「なに、困難なことじゃないと思いますよ。少なくとも不可能ではない」

 助役と僕は、無言で顔を見合わせた。はったりにしては、妙に重みが伝わってきたからだ。

 村長は再び握手を求めてきた。

「平野君、よくやってくれた。早速、東京にプレゼンに行くとしよう。ただ君の任務はこれで終わりではない。修正や補足すべき点がないかどうか、精査をお願いする。それからディスクをコピーして私に下さい。自分なりに付け加えたい文言があるのでね」

 僕は、村長の感謝の意をひとまず素直に受け取ることにした。ただ、いくら村長が辣腕で人脈に恵まれていても、このプランは実現不可能としか思えなかった。乗り越えるべき高い壁は多々あるが、まずは助役の言うとおり琴浦町とその町民の理解が得られるはずもない。それとも、とんでもない秘策があるのだろうか。

 いや、そこまで気を回す必要はないだろう。与えられた仕事は、計画の策定だけだ。その結果として報奨金さえ受け取れれば、いいのだ。僕は肩の荷を下ろした感じに浸ることにした。

 次第に日が翳ってきて仕事場も薄暗くなり、墓場のような冷気が満ちた。死んだら毎日、こうなのかなあと妙な思いに僕は囚われてしまった。その後も変な考えが、次々に浮かんでは消えた。たとえば今もし死んだら、誰にも知らせることなく無縁仏になってしまうのだろうか。このような状態を孤独と言うのだろうか。

 あるいは今まで生きてきた証は、借用書と請求書があるだけだと思えてくる。そうであるならばリゾート開発計画書は自分にとっては、非常に重要なものだと気付いた。なぜなら自分が死んでも、それは形として残るからだ。

 それから僕は、計画書を何度も読み返して過ごした。多分、にやついていたに違いない。そして雅樂には改めて感謝しつつも、恐怖に近い感情を覚えていた。まったく底の知れない人間がいるものだ。

 定時になったので退出しようとすると、妙子がほの暗い中でストーブも使わず、頭からウールコートを被るようにして書類に向き合っていた。声をかけるのを躊躇していると、小さく嗚咽のような声を上げはじめた。僕は鬼婆を連想してしまった。

 妙子は僕に気付くと、慌てて口を閉じた。その表情は強張り、生気が感じられない。そのまま無視されるのかと思ったら、弱々しい声が耳に届いた。

「他の人はいないわ」

 役場に二人きりだと伝えているように聞こえた。一瞬、気色の悪い想像をしてしまったが、妙子の眼差しに媚はなく真剣そのものだった。僕と純粋に話をしたがっているのだ。しかし僕は、本当に彼女が苦手だった。何も気付かない振りをして宿舎に戻ったのだった。

 夜更けに、しとしとと雨が降りだした。雨音に誘われてうとうとしかかると、そう遠くない所で銃声が何発も轟いた。間もなく交番の半鐘が打ち鳴らされた。男たちの叫びが聞こえてくる。久吾屋未明が飛び出していく気配がした。

 また犬が現れたのか。僕も行かなければ、何をされるかわかったものではない。起き上がった時に縁側の戸が、かさこそと音を立てているのに気付いた。風の悪戯ではなく、何かが僕を呼んでいた。灯りは点けず懐中電灯を持って怖々、戸を開けてみる。

 あの犬がきちんと座って、僕を見上げていた。濡れそぼったことで全身の黒さが際立ち、まるで良質の石炭のような光沢を放っていた。

「ダン、じゃないか」

 犬は一瞬きょとんとしていたが、すぐにダンとは自分のことだと理解したようだ。立ち上がり、嬉しそうに勢いよく尻尾を振って応えてくれた。

 ダンの身体は、わずかの間に成犬同様となっていた。鼻先から尻尾の先までは、一メートルは超えていよう。上から見ると流線型の胴体が、長い頑丈そうな脚に支えられている。痩せ気味ではあったが、分厚い胸と研ぎ澄まされた筋肉には目を瞠るものがあった。

 時に悪戯っぽく動く茶色の眼は、勇気と誠実さに溢れていた。それ以外にも人間が今や失ってしまった大切なものを、ダンは体現しているような印象を持った。

 しかし再会を喜んでいる暇はなかった。ダンに危機が迫っている。それどころか一緒にいるところを見られたら、僕の身も危うい。

「ダン、早く逃げろ」

 ダンは困った表情で、僕こそ逃げるようにと懇願している。

「僕は、もう少しでここを出られるんだ」

 ダンは前脚で地面をかきむしった。何度言ったらわかるんだ、呑気すぎると居ても立ってもいられない様子だ。

 男たちの声が、次第に近づいてきた。山野瀬が自分を叱咤するように怒鳴っている。

「今度は逃がさんぞ」

 石切屋伸良の野太い声が響いた。

「本当にあの犬だったのか」

 信士が喚いた。

「間違いねえって。そりゃそうと平野がいないってことは、またあいつが庇っているんじゃなかろうな。おい、久吾屋、ちょっと見て来い」

 それを聞くとダンは宿舎の周りの生垣を、助走もなく優雅に飛び越えて姿を消した。僕も慌ててサンダルを履き、外に出た。その直後に久吾屋未明が現れた。疑わしそうに僕を見つめて言う。

「どうしました、寝間着のままで。寒いし雨降りですよ」

 僕は精一杯、平静さを装った。

「一刻も早く駆けつけようと思いまして」

「それにしては時間がかかり過ぎていますよ」

「済みません。飲み過ぎて起きられなかったんです」

「そうですか。ところで犬を見ませんでしたか」

「いいえ。もし見かければ、この前の一件が身に沁みてますから必ず皆さんを呼びますよ」

 未明は不承不承ながら、僕を追求するのを諦めたようだ。今日は徹夜かなとぼやきながら、信士たちに合流して行った。手早くダンの足跡を消した後、僕も着替えて彼らを追ったが、足手まといだと帰されてしまった。やはり信頼されていないのだろう。

 再び横になったが眠れない。なぜダンは、切羽詰まった様子で訴えかけてきたのだろう。ふと頭の中で碧の話と雅樂からの情報が、完全に繋がった。いわゆる神隠しと人身御供は、同じことを表しているに違いない。僕は、またしても以前に見た不思議な悪夢を思い出していた。ダンは、僕が生贄になると警告してくれているのではないか。

 けれども二十世紀の日本人として、それを本気で信じ込むことはできなかった。確かに村には怪しいところがあるが、昔話のようなことが起きるはずがないだろう。そもそも逃げ出せば約束の一千万円が、水の泡となる。とにかく契約どおり、今年一杯はここにいるしかない。

 ちょっと神経が衰弱気味かもしれない。こういう時は、楽しい事だけを考えることにしよう。すると僕の脳裏は、いつしか碧と語らっている光景で満たされていた。

 


 

 





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