47 紗英の秘密3

 飲み会は代々木駅近くの居酒屋で行なわれた。雑居ビルの1階に入った海鮮のお店で、ガラス張りになっていて、中が見える感じ。内装も新しくて清潔感があった。


 てっきり5人で行くのかと思いきや、スクールには他の人たちもいたようで(当たり前だが)、結局10人以上の大所帯になった。月曜日だと言うのに、本当に元気な人たちである。仕事柄、文系インドア人間の多い大智の勤務先には、あまりいないタイプの人たちだ。


 最初こそ和やかな飲み会だったが、酔いが進むと、大きな声で話し始めたり、酒が入ったままのグラスを倒したり、あまり褒められない飲み方をする人が増えていった。汗を流したあとの飲み会ゆえ、酔いやすかったのかもしれない。


 その中でひとり、紗英に悪絡みする男性がいた。どうやら紗英に好意を持っていたらしく、彼女が婚約してしまったことをグチグチ言い続けていた。意中の相手に交際相手がいて、しかも婚約したとなれば、そりゃあショックに違いないが、飲み会で本人に言うのは的外れもいいところだ。


 最初、馬込と若松がやんわり話をやめるように促していたが(意外といいところもあるんだなと思った)、彼はすっかり出来上がっている様子だった。ので、大智は動くことにした。その男性と紗英の間に割り込んで座ったのだ。紗英は驚いたような顔をしていたが、すぐに軽くうなずいた。彼女の性格なら申し訳なさそうな表情をするのかと思いきや、すんなりと受け入れたことに少し驚いた。


 馬込や若松からも申し訳なさそうな、それでいて同情するかのような視線をもらったが、大智としては、この手の対応は慣れた行為である。昔から面倒な人の相手をすることが多かったし、会社でも一番厄介な男が上司だ。クライアントとの飲み会でも社内の忘年会でも、この手の役目は慣れているのだ。


 紗英に片想いしていたらしき男は、大智が20~30分ほど相手をすると話し疲れてしまったようで、テーブルに突っ伏して眠り始めた。ビールジョッキの側面から垂れた水滴に、彼の涙が少し混ざっていた。



   ○○○



 飲み会が始まってから1時間半ほど経った頃、大智は店の外に出た。冷房に当たりすぎたのか、身体が冷えてしまったのだ。


 一度出ると、すぐに生ぬるい夏の夜風が身体にまとわりついてくる。店の入口横は喫煙スペースになっており、木製のベンチが置いてあった。どっしりと腰かけると、入り口のドアが開く音が聞こえる。


「よっ」

「……よう」


 紗英だった。どこか共犯者めいた笑みを浮かべている。べつに謀って飲み会から抜け出したワケでもないだろうに。


 大智が座る位置をスライドさせると、紗英は横に腰掛けた。隣と形容するには少し遠い距離があった。大智が黙ったままでいると、


「タバコ」


 紗英がつぶやくように言う。


「吸ってたっけ?」


 そしてそう続ける。どうやらタバコを吸うようになったのか尋ねたらしい。大智は思わずふっと笑ってしまいつつ、首を横に振って否定する。


「それこっちのセリフ」

「吸ってないよ」

「ただ酔いを覚まそうって」

「私もそう」

「そっか」

「うん」


 ポンポンポン、と会話が生まれた。ふたりとも、発する言葉は短い。


「あと、ここにいれば大智、きっと来てくれるだろうなって」


 紗英はそう言って笑う。少し長い言葉だった。店の灯りが顔の横川に当たって、すっと通った鼻筋の左と右で陰影が生まれていた。文句のつけようのない美人だ。


 視線を逸らすと、足元にタバコの吸い殻が落ちていた。黙って拾い、灰皿を探すが見つからない。


「これ」


 紗英が灰皿を差し出していた。ベンチの隅、紗英が座っている側に置いてあったようだ。


「悪い」


 手を伸ばし、灰皿を受け取ろうとすると、手と手が軽く触れる。思わず視線を上げるが、紗英はとくに気にする様子もなく、通りを眺めていた。大智が灰皿を受け取ると、機械のように自動的に手は降りていく。


 またしても沈黙がやって来た。紗英と同じように通りを眺める。営業マンの大智だったが、思えば月曜日から誰かと飲みに来るのは久しぶりだった。行き交う人の数はそれほど多くなく、街はどことなく寂しい表情をしているように思えた。夜も更け始めているのに、空気はじとっと湿り気を帯びている。深く息を吸い込むと、つい先程まで誰かが吸っていたのであろう、タバコの残り香が鼻の奥を刺激してくる。どこかくすぐったい、落ち着かない気持ちが加速する。


「あのときもそうだったよね」


 紗英が不意に発する。


「あのとき……ああ」


 彼女が何を指しているのかわかった。ふたりの距離がグッと縮まるきっかけとなった、大学時代のバイト先での飲み会のことだ。


 バイト仲間たちと開かれたあの飲み会。開催当初の名目は大智と紗英の歓迎会だったはずだが、気づけばただの飲み会と化した。飲み方も体育会系にふさわしいもので、結果的に悪酔いした男子のひとりが紗英に絡み、トイレから戻ってきた大智が彼の相手をするかのように座った……という感じだった。


 あのとき、大智は自分の席が空いてなくて座っただけだった。なので、あのときと一緒ではないのだ。今日、意識的に紗英を悪酔い男からかばったのは事実だとしても。


(もしかすると、紗英は知らないのかな……)


 そう思い、大智が簡単に伝えると、紗英は小さくため息をついた。どこか不満げな表情をしているように見えた。


「……なーんだ。7年越しに損した気分」

「言わなかったっけ?」

「聞いてないよ」

「そっか……なんか、ごめん」


 大智がそう言うと、紗英は急に笑顔になる。してやったりという感じのイタズラっぽい表情だ。


「ってウソウソ。知ってたよ」

「なんだウソかよ」

「まあ、後から気づいた感じだけど。あの頃の大智は、全然女の子慣れしてなかったから、わざとじゃなかったんだろうなって」

「今もだけど」

「でも仕事とかで接するのはあるでしょ?」

「それは、まあ」

「だからさっきは助けてくれた」

「……」


 否定できなかった。


「あの人、2週間くらい前に来るようになったんだ。だから私のことまだあんまり知らなかったみたいで」

「そっか……びっくりだな」

「そうだよね。私のこと全然知らないのに」


 大智としては、片想いの期間が2週間程度とは思えないほどの悲しみ方だと言ったつもりだったが、紗英は彼が自分のことを深く知らないのに、好きになられていたことに驚いたようだった。


(逆なんだよな……知らないのに好きになったんじゃない、知らないから好きになったんだ)


 思えば、昔から彼女は自分の美しさに無自覚なところがあった。決して自己評価が低いというワケではなく、単純に奥ゆかしく、控えめな性格だからだろう。


「もしかするともう来ないかも……ボルダリング好きが増えると思ったのに、残念だなあ」


 心から残念に思っているのがわかる口調だった。なんだか自分に言われているような気持ちになったが、おそらくそこまで考えての言葉ではないだろう。


 気づけば、自然と紗英と会話を重ねていた。かつて付き合っていただけあって、そのテンポはとても合っていると思った。


「指輪」


 一言そう口にすると、紗英は静かに小さくうなずいた。口が開き、小さなほくろが視界のなかで揺れる。


「会社の先輩でさ、2年前かな? 付き合い始めて、3ヶ月前に婚約したの。だからスクールの人はほとんど知ってる」

「そっか」

「え、それだけ?」

「あ、えっと……おめでとうがまだだったな。おめでとう」

「ありがと……ふふ。言わせちゃった」


 満足げに紗英が笑う。言葉だけの、安いお祝いだが、それでも彼女には嬉しいようだ。どうして嬉しいのか、大智にはよくわからなかった……が、それでもひとつだけわかったことがあった。紗英はもう、大智のことなど少しも見ていないということだ。


 いや、そう言ってしまうと語弊がある。もともと、彼女が自分のことをどうとも思っていないことは十分伝わっていた。大智的に、今夜その理由を確認した……という感じなのだ。


「大智はもう結婚した?」


 大智のことを見ず、真っ直ぐ通りを眺めたまま、紗英は尋ねてきた。大智も同じように通りに視線を移す。


「まだだよ」

「まだか。今の彼女さんはどう言ってるの?」

「え、なんで彼女いるってわかるんだ?」

「わかんないよ。今のはカマかけただけ」

「……なんだ。てっきり俺を見て見抜いたとかかと」

「私にそんな推理能力みたいなのないから」

「どうだろう……考えたことないからな」


 少し言葉のチョイスに悩んで、返答が遅れる。あの葉豆のことだ、密かに夢想している可能性もゼロではないと思ってしまうが、少なくとも大智のほうは、そこまでの気持ちには至っていない。ふたりきりのデートより、親を交えたほうが盛り上がるくらいなのだから当然と言えば当然だが。


「そうなんだ。遊びの恋?」

「そんなつもりはないよ」

「だろうね。大智だもんね……ってことは相手がまだ若いってことか」

「そんな感じ」

「年上好きから年下好きに変わったのか」

「はは。ご想像にお任せするよ」


 紗英は小さく笑った。そこで会話は途切れた。

 

 もし具体的な年齢まで尋ねられたらどうしようと思ったが、紗英はそこまでは聞いてこなかった。少し安堵する……と思いきや、大智はどこかで尋ねられることを待っていた自分に気づいた。イジられて嬉しい話ではないが、まったく聞かれないのも嫌だったのかもしれない……高田のことをよく軟派な人間だと内心思う大智だが、自分にもそういう面はあったらしい。


 と、そんなふうに新たな自身の一面の発見に、自分でも戸惑っていると、紗英がベンチから立ち上がった。


「あ、そろそろ戻る?」


 彼女はこちらに背を向けて立ったまま、なにも発しない。聞こえなかったのかと思って再度口を開こうと思ったが、


「印象的な終わり方の本の話、覚えてる?」


 夏の夜風に乗って、甘い声が鼓膜に触れた。


「……ああ。俺と紗英が初めてちゃんと喋った」

「そう……ずっとね、心残りだったんだ。大智と変な別れ方したの」

「……」


 大智と紗英が別れたのは、別の異性と仲良く話していることに、お互いに嫉妬したというのが原因だった。自然消滅だったせいで別れの言葉らしい別れの言葉もなかった。なにもかもが、青くさい大学生らしさに満ちている。


「仕方ないよ。子供だったんだ、ふたりとも」

「うん……でもさ、こんな言い方が正しいかはわからないけど、後悔はしてないの。きっと私たちはそういう運命だったんだって」


 大智は黙ってうなずいた。背を向けたまま話している彼女には見えていないはずだが、不思議と通じている気がした。


「でも、それにしても安い終わり方だったなって。起きてもない浮気に嫉妬しあって別れるなんて、どんな駄作にもないもの」

「だろうね」

「だからね、ずっと書き換えるチャンスを待ってた……そう言うと、私がもう一度大智と付き合いたい、そんなふうに聞こえるかもしれないけど」

「わかるよ、違うんだろ」


 大智がそう返すと、紗英の口元がふっと緩むのが見えた。気づけば背を向けていた身体が斜めになっている。


 紗英はゆっくりとこちらを向き直すと、大智にこう告げた。


「ボルダリング、楽しいよ。大智もしない?」


 その言葉は、大智の耳にはこう聞こえた。友達に戻りましょう……と。


 7年越しに聞いた、ちゃんとした別れの言葉に、大智はニヤッと笑った。通じたことがわかったのか、紗英も笑った。かつて見せた、あどけなさの残るモノではなく、すっかりオトナの女性として完成された笑顔だった。


 大智は静かにうなずいた。


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いつも応援してくださる読者の皆様、こんばんは。ラッコです。


「続きが気になります!」というコメントを頂くと、ありがたいと同時に「僕は続き知ってるけどね!!」と言いたくなります。

さて、ファミ通文庫大賞にエントリー中です。一時期は60位台にいたんですが3桁台になってからは探しておりません。行方不明です。行方不明の本作を見つけ出せるよう、気が向いた方は星レビューよろしくお願いします!

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