38 社畜は元カノと再会する…1
その日以降、山岸が独立の件について話すことはなかった。周囲に気を遣わない、いや気を遣えない彼だが、さすがにその程度の分別はわきまえているということだろう。
「いや……それはないよなあ」
電車の中、つま先立ち運動をしていると、ひとりつぶやいてしまう。隣にいたサラリーマンが不思議そうに見たので会釈しつつ、大智は違う方向を向く。
体育会系にいた経験のある人ならきっとわかるだろうし、ない人にはわかりにくいかもしれないが、山岸のような人間は体育会系組織には必ず存在する。年齢、学年、階級、役職……そういったわかりやすく数字で形容できるモノで上下関係を決めつけ、それに則った行動を取る。
一度自分より下とみなした人間には、徹底的にキツく、雑に当たる。彼らにとって「いじること」は「構うこと」であり、つまり『愛情』だと勘違いしているため、口を開けば「バカじゃねえの」「お前本当にどうしようもねえな」「これだから童貞は」みたいな、酷い言葉を連発する。
子供の頃から体育会の世界に身を置いてきた大智は、高校時代にはすでにその手の人間に辟易していた。が、逆に言えばそのような経験が多かったからこそ、感情を無にする訓練を多く積み、結果的に山岸のようなパワハラモンスターとでもそれなりに良好な関係性を築けるようになった。
でも、それがダメだった。自分の身を守ろうと上手く付き合っていた結果、余計にややこしいことになってしまった。
進むも地獄、進まぬも地獄。独立も地獄、独立しないのも地獄。
(まあでも。今日は考えるのやめよう……)
大智がなぜそう思ったのか。実はこの日は、少し前に予約したボルダリングジムの体験講習があったのだ。
仕事に余裕が出てきたこともあり、大智は新たにスポーツを始めたいと考えた。そして、葉豆(はずき)にオススメを尋ねたところ『ボルダリングなんてどうでしょう?』とLINEで言われた……という経緯だった。その予約した日が今日なのだ。
ボルダリングジムは代々木にあった。大智の勤務先からだと東京メトロ銀座線と都営大江戸線を乗り継いで、30分ほどの距離だ。
と、そのときLINEの通知音が鳴る。葉豆からだった。
『お仕事お疲れ様です!!』
『葉豆ちゃんもお疲れ』
先週、あんな感じで課題の残るデートをしたふたりだったが、幸いにも葉豆は以前と変わらぬ態度で接してきていた。つまり、会わない日もLINEをたくさん送ってきていた。
『今日ですよね? 例の』
『あ、そうそう』
『ボルデモート』
『予測変換間違ってるよ。ボルダリングね』
『わざとです!』
『わざとか』
『だいちさん、今のはポンデリングね、って言うとこでしたよ!』
『ごめん、JKのジョークよくわかんないや……』
もともと天然ですっとぼけている葉豆だったが、最近はこうやってよくわからないジョークを言うようになっていた。JKならではのユーモアなのか、それとも葉豆ならではなのかわからなかったし、正直、大智としては絡みにくさが増した感すらあったが、それでも自分になついてくれているのは嬉しいことだった。
『で、何時からでしたっけ?』
葉豆が話を戻す。
『20時半から』
『わ、もうすぐですね! 頑張ってくださいね!!』
『ありがとう』
そう綴ると、筋肉をムキッとさせた感じのスタンプを送ってきた。いくつかスタンプを送り返したところで電車が代々木駅に到着した。
代々木駅の改札を出ると、左側に進んで電車の高架橋をくぐり抜ける。代々木には他にもボルダリングジムがあるようだったが、今日は繁華街とは逆の方向だった。(まあ代々木はショボい場所なので、繁華街って言っても全然大したことはないのだが)
薄暗い通りを、新宿御苑御苑の方向に向かって進む。風に木々のニオイが混じってきた頃、Google マップが示した住所にたどり着いた。そこは、少し古びた感じのマンションだった。
正直、ボルダリングジムがあるとは思えない建物だった。すでに暗いのでただでさえ全体像がわからないうえに、廊下を照らす光がところどころチカチカしていて、それが余計に外壁の色をわかりにくくしている。たぶん茶色っぽい感じだと思われたが……1階には居酒屋とラーメン屋が並んでいるが、客は少なく、バイトらしき店員がボケーっと外を見ていた。
「ここ……で合ってるよな?」
大智はひとりつぶやく。初めて行く場所ゆえの不安や、古びたマンションが醸し出す不穏な気配に、少し気圧されていた。サイトをもう一度見てみると、そこには「B1」の文字、つまり地下1階との表記があり……マンション正面ではなく、右側の横道を見ると看板が出ていることに気づく。地下へと繋がる階段が、そこにはあった。
「地下にあるんだ……」
勇気を出して階段をくだって行く。長い階段だった。コツコツコツ、と革靴が音を立てて、風の音や木々のニオイが消える。まるで、都会に生まれた切れ目に落ちていくかのような感覚があった。
そして、一番下までたどり着き、ドアを開けると……そこはフロントだった。タブレットとクレカ決済用の電子ペン、呼び鈴があるだけのシンプルなフロントだ。
タイミングが悪かったのか店員はおらず、『御用の方は呼び鈴を押してください』と書いた紙が置かれてあるだけだった。
「どうしよう……やっぱ帰ろうかな」
場所が場所なだけに入りにくいし、入ったら入ったで勝手に歓迎されてない感覚を覚えてしまう……思わず、大智の胸のなかに不安が募った。そのときだった。
「よっしゃ! クリア」
「おめでとーっ!」
通路を進んだ先から楽しそうな声が聞こえてきた。恐る恐る進み、中を覗いてみると……そこには、想像以上に明るい空間が広がっていた。
様々な傾斜の壁が四方に並んでおり、中には「屹立している」と言っても良さそうな高さのモノもあった。壁は白やグレーなどで、多角的に降り注ぐ蛍光灯の光を反射しており、夜道に慣れた目には眩しく写る。また、その壁には様々な形の、様々な色合いの……なんて名前なのかわからなかったが突起物が見え、まさに目にも鮮やかな感じ。
まだ出来てからそれほど時間が経っていないのか、全体的にとても新しく、見た目もニオイも清潔感にあふれていた。ニオイに清潔感があるのは、内装自体が新しい証拠だ。
「こんばんは!」
と、そこで後ろから声をかけられる。明らかにスタッフらしきジャージ姿の、爽やかな笑顔の男性がそこにいた。大智と同年代くらいのようだが、金メッシュのツンツンとした短髪なこともあり、年齢より若くみえる感じ。
「もしかして初めてですか?」
「あ、はい。今日予約してたんですけど」
「もしかして、20時半から予約の大久保様で?」
「それです」
「お待ちしておりました」
にこやかに彼は笑った。
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このあともう1話更新します。1時頃。
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