39 社畜は元カノと再会する…2
男性スタッフは山吹と名乗った。彼に簡単に施設の説明を受けたのち、大智は更衣室で持ってきていたジャージに着替えることになった。室内用のシューズも持ってきていたのだが、ボルダリングでは専用のシューズを使うらしく、お役御免となった。
シューズをレンタルし、初回限定のサービスとして、チョークが入ったゴム製の袋を受け取る。学校の授業で使っていたチョークが粉々になった感じのモノで、登るときに手につけるそうだ。
そして、ふたたびボルダリングエリアへと入っていく。改めてぐるっと一帯を見回すと、意外と人が多くいることに気づく。今は20時半だが、十数人くらいの先客がいた。
落下しても平気なようにか、壁に沿って分厚いマットが敷いてある。逆に言えばそれ以外はフリースペースのようで、歓談したり、並んでストレッチしている人の姿が見える。
大智と目が合うと、2人の若い男女が軽く会釈して微笑んでくれた。ポロシャツを着た、眼鏡のなんかエンジニアっぽい風貌の男性と、蛍光イエローのTシャツに黒の短パン、その下に蛍光ピンクのレギンス……という派手な風貌の女性だった。男性がエンジニアならこっちはデザイナーだろうか。(偏見)
そんな話はさておき、大智も会釈し返す。すると、彼らはその会釈にもニコッと笑ってくれた。
(外交的な人たちなのかな……それともここのジムがそういう風習なのか? サイクリストたちがサイクリングロードですれ違うときに声を掛け合う的な感じの)
フランクさに少し驚いた大智だったが、とは言え、パワハラ上司と常に接している手前、機嫌のいい人は大好きであり、決して悪い気はしなかった。
その後、ふたたび他の人達を見る。10代らしき人もいるものの、時間帯のせいかほとんどが社会人という出で立ちだったが、どの人もとても表情が明るかった。というか顔色が明るい、血色がいい感じ。仕事後にスポーツをする人は、残業ばかりしている人より見た目も健康的なのかもしれない……と、大智はとくに意外性もないことを思った。
そして、である。この空間で、なんと言ってもやはり一番目を奪われたのは、先客たちのボルダリング姿だった。明らかに初心者っぽい人もいたものの、慣れた様子の人もいて、その姿を見て大智は思う。
(やべえ!!! 超カッコいいじゃん!!!)
そう思ってしまうほど、傾斜のキツイ壁を器用にのぼっていたのだ。
筋肉質な男性が多いのかと思いきや、痩せ型の年配男性や、筋肉は正直あんまりなさそうな細身の女性もおり、しかもそういう人たちに限って上手い感じだった。大きく傾斜した、体感的にはもはや床と平行なのではないかと思えるような壁を、反動を利用して器用に登っているのだ。その姿はときに猿のようでもあり、またときに蜘蛛のようでもあった。
と同時に、大智は壁を登るというそのシンプルな行為に、すでに魅了され始めていた。
店のHPで見ていたときはわからなかったが、4メートル程度の壁でも、実際に見てみると結構高く感じられるし、間近で見るとなんだか本能を刺激される。きっと、猿だった時代のDNAが刺激を受けている……のかはわからないけど、高いところに自力で登るという体験は、日常生活にはなかったモノだ。
すると、大智のそんな様子に気づいたのか、マニュアルに沿って基本的な説明していた山吹がこう言った。
「大久保さんってもともと結構スポーツされてましたよね?」
「あ、はい。ゴルフとマラソンと、あとは趣味でスカッシュとかを少々」
「へえ、面白いスポーツ歴ですね」
「え、そうですか?」
「だってどれもあんま関係ない感じなので」
「まあ、そう言われれば……身体を動かすことが好きなんだと」
そう言うと、山吹はニカッと笑う。
「ボルダリングはどうですか? 好きになれそうですか?」
「好きになれるかはやってみないとわかんないですけど……でも思った以上に下半身を使いそうですね」
「お、さすが。鋭いです」
「ですよね」
「ボルダリングって言うと、どうしても手とか腕で登るスポーツだと思われがちです。でも実際にやってみると上半身だけだと疲れてもたない。下半身でいかに支えるかが大事なんです」
「あとは、下半身をいかに使うか……って頭を使う、的な?」
「さらに鋭い! まさにその通り。ボルダリングはまさに頭も使うスポーツで、進み方によって難易度が全然変わるし、性格も出るというか」
山吹はそこまで言うと、ふたたびニカッと笑う。金メッシュの短髪な髪型といい、爽やさ全開な感じだが、すでにボルダリングに対する情熱を大智は感じ始めていた。
「じゃ、論より証拠ってことで早速始めちゃいましょう」
「あ、はい」
山吹は爽やかに手をパンと叩くと、マットの上に上がっていく。いつの間にかレクチャーが始まっていたらしい。もう少しちゃんと聞いておけばよかったな……と思いつつ、大智も彼のもとへ向かった。
そして、大智は山吹から説明を受ける。最初に話されたのは着地について。分厚いマットが敷いてあるものの、高いところから飛び降りると関節などを痛める可能性があるという。ゆえに、必ず途中まで降りてきて、膝を柔らかくして着地するんだとか。
次に、ホールド横のテープについて説明を受ける。ホールドの近くには赤、黄色、緑、青、水色、黒、紫……などなど、とにかく色んなカラーのテープが貼ってある。山吹によると、この印に沿って進んでいくという。ホールドなら何でも使っていいというワケではないのだ。
「なるほど……ってことは、どうやって身体を動かすか、どんな体勢で次のホールドに行くかとかを考えると」
「まさにそうです。まずは一番簡単なコースをやってみましょう」
そう言われ、大智はこのジムで『レベル1』の白色テープのコースに挑戦することになった。ほぼ同じ高さのところを横に進んで行くだけで、ホールドも掴みやすいモノばかり。すぐにクリアすることができた。
「お、さすがですね!」
「いや、これなら誰でも……ってことはないか」
「そうなんです。横に進むだけでも意外と背筋とか使うんですよ」
実際にやってみた後なので、大智には山吹の言葉の意味がわかった。大きな動きこそないものの、思った以上に筋力を必要とする感じなのだ。いわゆるインナーマッスルというやつを使う感じ、と言えば通じる人には通じるかもしれない。
○○○
その後、レベル2から順にレベル4まで難なくクリア……したところで、山吹がその場を離れた。予約なしの客がやって来たようだった。
「はあはあ……ふう」
吐息が自然と漏れる。気づけば、全身がじんわりを汗をまとっていた。脈動が早くなってきているが、今はそれすら心地よい。自分の身体が想像以上に動くことに、大智は安堵と、満足感を覚えていたのだ。
両手で前髪を上にあげると、一番高いところまで登っている女性の姿が視界に入ってきた。小柄かつ細身で、筋肉量で言えば自分の半分ほどしかなさそうに思える人だった。
(意外といけるんじゃないか……??)
そんなふうに思った。レベル10、黒のテープと言っても、今相対している壁に傾斜はない。レベル4の時点で一番上までは登った。4メートルは想像以上に高く思えたが、登ってみると1分もかからなかった。
指を最初のホールドにかける。両足を順番にホールドに乗せる。幸い、腕にも足にもまだ余裕があった。そして順番に順番に、記された番号通りに進んでいく。ときに上に進み、ときに横に進み……
そして、半分程度に達した頃には、大智はこう感じていた。
(え、さっきまでと全然難しさ違うっ!!!)
そう、同じ壁でも、レベルが違うとレベルが違うのだ。
日本語がなんだかおかしく、アホな感じになってしまったが、ホールドの形が掴みにくくなっていることや、ホールド間の距離が大きくなっていること、柔軟な身体の動かし方が必要になってくること……などがその理由だった。
大智は腐ってもスポーツマンだ。なので、なぜ難しいのかは挑戦している最中でもわかった。が、どうやって乗り越えるのかはわからない。結果、どんどん指や腕、足に疲れが出てきて、それをかばおうとしたのか次第に腰や背中に疲れを感じてくる。
(ヤバい、乳酸が溜まってきてる……限界が近い……)
しかし、気づけばなんとか、ホールドあと一個のところまで来ていた。男として、ここで諦めるワケにはいかない……そう思い、なんとか手を伸ばし、ガッと掴むことに成功。無事、クリアとなった。
「やった!!!」
喜びが全身を支配し、気づけば自然と声が出ていた。すると、背後からパチパチパチという音が聞こえることに気づく。振り返ると、先程会釈しあったエンジニア男性(外見的判断)とデザイナー女性(適当)が下から拍手してくれていた。
「初めての方ですよね?」
「あ、はい!」
「スゴいですね! 私、そのコース登れるまで3ヶ月かかったんで」
「そ、そうなんですね」
そんなことを言いつつ、大智は笑顔を振りまく……のだが、正直全身が限界を迎えていた。気を抜けば指がすぐにホールドから滑り、そのまま落ちてしまいそうな感じだ。
(ヤバい、降りないと……)
実際に経験してみるとわかることだが、ボルダリングにあるマットは、意外と硬い。きっと柔らかすぎるとそれはそれで危険ということなのだろうが、そこそこ硬いせいで、筋肉質ゆえ体重は人並み以上にある大智が一番上から飛び降りると膝を痛めそうな気がしていた。
ので、来たコースを戻ろうとするのだが、これが不思議なモノで、行きは大丈夫だったはずの道が難しい。手と足の動かし方が左右で変わるし、ホールドの持ち方も変わるからだ。
(キツすぎる……はやく飛び降りれるところまで……)
そのときだった。
「あ、サエちゃん!!」
「サエちんやっと来た!!」
エンジニア男性と、デザイナー女性が入り口の方向に向かって叫んだ。さっきまで話していたせいか、大智はその声につられて振り返ってしまう。大智から見て斜め下、入り口に近い場所に、茶色のショートカットの、スラリとした女性の姿があった。
八頭身を体現したかのような、モデル的な体型をしており、肩幅が少し広いが、それが格好良さに繋がっている。スッと伸びた足に一切の無駄はなく、一方で胸部はTシャツ越しでもわかるほど豊かに膨らんでいた。
遠目からでもわかるほど大きな瞳はキリッとしており、鼻筋はスッと通っている。オトナっぽさを感じさせる茶色のショートカットは、襟足が外に跳ねており、程よく格好いい。文句なしの美人であり、ジムの中にいる男性の視線が一気に集まったのが、上からということもあり、よくわかって……
「紗英……」
そうつぶやいた瞬間、大智の指がホールドから外れた。視界にカラフルなホールドが星のように浮かび、上半身から下に落下。程なくして背中に衝撃が走った。
「え、今の音」
「うわ、落ちた!?」
そう言うと、エンジニア男性とデザイナー女性が駆け寄ってきた。左右から心配そうに覗き込んできている。
「大丈夫ですか!?」
「ケガしてません!?」
「あ、はい、大丈夫です。ちょっと、痛い、だけ、で……」
そこで、大智の言葉は自然と止まった。男性と女性の間から、さっきの美人がこれまた心配そうに覗き込んできたからだ。言葉だけでなく、息も止まるかと思った。
「あの、大丈夫ですか……ってあれ。もしかして……大智?」
美人の顔から、心配の色がすっと消える。代わりに、瞳が大きく見開き、綺麗な指が口元を押さえるなどして、驚きの色に満ちたのがわかった。
彼女の名前は神楽紗英。
大智の、初めて彼女であり、元カノだ。
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