10 社畜リーマンは元カノを忘れられない…
「話を変えよう。だいだい、最近、女関係はどうなんだ?」
「ぶっ……げほげほげほ」
「うわ、ちゃんこ吹き出した。汚っえ」
高田がそんなことを言い出した結果、大智はちゃんこを変な飲み込み方をして、むせてしまった。体を引いて遠ざかろうとする高田を、大智は軽く睨む。
「高田のせいだろ、急に変なこと聞くから」
「わりい。じゃあ今度から前の日に『明日、彼女できたか?』って聞くようにするわ」
「いやそれ余計うぜーから」
「で、最近どうなの?」
いい年したオッサンが仕事の合間に話すことじゃないと大智は思うが、高田はすごくワクワクした表情だった。彼は仕事熱心ないい奴だが、俗っぽいところがあった。ゆえに恋バナが大好きで、このときもアラサーにも関わらず、修学旅行の夜を迎えた中学生男子のような目をしていたのだった。
なので仕方なく、大智は自身の恋愛について話すことになる。
「……残念ながらなんにも。マジでカラッカラですよ」
「ほう」
「キャップし忘れたスティック糊くらい乾いてる。キャップし忘れた油性ペンくらい乾いてる。確定申告シーズンに行く税務署の空気くらい乾燥してる」
「それはすげえ乾燥してんな……スティック糊とかそうなったら俺もう捨てちゃう」
神妙な面持ちで高田がそんなことを言う。結果、大智は思わず少しイラッとした。自虐というのは複雑なモノで、自分で言うのはいいけど、他の人に言われると腹が立つのだ。
「逆に聞きたいんだけど、社会人になってどうやって彼女作るって言うんだよ」
ので、こんなふうに続けた。
「平日は終電まで仕事で家に帰って寝るだけ。寝たら朝、また会社。仕事終わりにデートすると考えたら、もうお家デートか電車デートしか残されてないんだぜ?」
「お家デートでも社会人になれば手抜きって言われるのに、電車デートした日には破局間違いなしだな」
「それに、土日は土日で平日にできなかった家事とかやんないといけない」
「洗濯物とか掃除とかな」
「それに平日は睡眠時間も少なくなりがちだから、土日は長めに寝たい。料理の作り置きとかもしたいし……で、気づいたらもう月曜日」
「うむ」
「思うんだよ。この状況で恋人作れないほうがおかしいんじゃなく、恋人作れるほうがおかしいんだって。時間も体力もありすぎなんだ」
「ふうん。じゃあ会社で気になる子とかいないの?」
そして、高田はそんなふうに問う。
「会社が同じなら、昼休みとかちょっとした時間に会うことできるじゃん」
「職場恋愛は嫌だよ。別れたら絶対気まずいし……どっちかが辞めないといけない空気になるみたいなのは」
「あ、それって昔の彼女のこと言ってる?」
「……」
「はっはーん。大智、今もまだ昔の彼女を引きずってんだ?」
「……べ、べっつにそんなことはないっ、けど……」
「面白いくらいに図星な反応だな?」
実際、図星だった。結果、カミカミになり、額に冷や汗を浮かべた大智に、高田はニヤッと笑う。
「1年も付き合ってないのに何年も忘れられないなんて。よっぽどいい女だったんだろうな」
「……」
「いい加減、写真くらい見せてくれよ。一枚くらい持ってるんだろ?」
「やだよ。なんでお前に見せないといけないんだ」
「思い出を汚されたくないってか」
茶化すように言う高田。それを見て、大智は静かに言う。
「……悪いかよ。思い出を大事にして」
大智としてはべつにそんなつもりはなかったが、もともとの声が低めなこともあり、自然と凄みが出てしまった。高田は一瞬目を見開き、そして優しい笑顔を見せる。
「悪くないよ。んでからかって悪かった」
そして、立ち上がると伝票をひょいっと手に取る。
「ってことで今日は俺のおごりで」
「仕方ねえな。許す」
○○○
10代をスポーツに費やした大智だが、これでも過去に1人だけ恋人と呼べる存在がいたことがある。大学時代にバイトしていた、スポーツジムで出会った1年年上の女性だ。
当時、大智は子供の頃からやっていたゴルフをとある理由――まあスポーツにおいてプロの夢を諦めるなんて、実力不足かプロになっても稼げない競技か、あるいはそれくらいしか理由はないのだけど――で断念し、約1年間の猛勉強で大学生になったばかりだった。
そして、その女性は、大智が働きはじめてから1ヶ月後くらいに入ってきた。都内の女子大に通う、ショートカットが似合うスラリとした体躯の子で、かわいいというよりも美人と形容したほうが良さそうな見た目だった。
大智がもともと美人系よりかわいい系が好みなこと、そして彼女がフロント、つまりは受付のスタッフで、大智がトレーニングエリアのスタッフだったこともあり、最初のほうは正直あまり接点がなかった。
しかし、同じ店で働いていればいつかは接点が生まれるもの。彼女がバイトし始めて1ヶ月ほど経った頃、年齢の近いバイトスタッフで飲み会をすることになり、そこで急接近することになった。会が進むなかで、年上の先輩スタッフの男が酒に悪酔いし、彼女にウザ絡みを始めたのを、大智が席を替わることで助けてあげたのだ。
……とか言うと格好いい感じなのだが、実際は「トイレに行って戻ってきたら席が空いてなかったから、仕方なくそのウザい先輩の隣に座った」というものだった。つまり、なにも考えずに座ったワケだが、数十分にわたってウザ絡みされていた彼女は、大智がてっきり助けてくれたと勘違いしたのだった。まあ実際問題、幼少期から上下関係の厳しい体育会系の中で育ってきた大智は、当時からすでにウザい先輩のあしらいに慣れていたので、苦労もなかったのだが。
と、そんな流れで話すことになった大智たちだが、恋愛というのはそもそも勘違いから始まるものだ。彼女が一人暮らしする家と大智が当時住んでいた家が近いことが判明すると、個人的に会うようになり、程なくして交際に発展した。
そこからは特筆することもない、どこにでもある大学生同士の交際が始まった。お互いに恥ずかしがり屋な面があったので、バイト先ではごく普通のバイト仲間のように振る舞ったが、その裏では井の頭公園で散歩デートしたり、高田馬場の安っい居酒屋で飲んだり、その帰りに川べりを歩いたり、東京都庁の展望室から夕陽を眺めたりした。
お互いに金のない大学生だったので、金のかからない都内のデートスポット――都庁の展望室はその代表格で、自分たちと同じような金なし学生カップルをたくさん見ることができる――は一通り行ったし、都心に飽きるとほぼ千葉県と言っていい場所にある、葛西臨海公園まで足を伸ばしたりした。足を伸ばした結果、帰路で「あれ……もしかして交通費でそこそこいいランチでも食べれたんじゃない?」と気づくという、大学生カップルのテンプレ的展開もしっかり味わった。
そして、当然だが、男女の営みもした。
それまでスポーツ一筋だった大智にとって、当然ながら彼女は初めての相手だった。場所は大智の家。ネットで必要なものを準備し、さりげなくベッドの横に隠して夜を迎えたが、肝心の緊張が隠せていなかった。そのせいか、彼女の様子もどこかおかしかった。
触れるというより、ぶるけると言ったほうが近いような下手くそなキスで、終えたあとはお互いに笑ってしまった。誰かの照れ笑いを、十数センチの距離感で見るのは初めてのことだった。
やがて、彼女が電気を暗くするように大智に頼んだ……のだが、ここで大智はある異変に気づいた。小さいほうの電球が切れてしまっていたようで、つかなかったのだ。普段、夜はテレビを灯り代わりにしていたせいで、気づかなかったのだ。
しかし、初夜を前にした男女がそんなことで立ち止まれないのも事実だった。彼女は大智に、
「テレビつけて……音消して……する?」
と聞いてきた。真っ暗だとなにも見えないし、大きいほうの照明をつけたままだと恥ずかしいし……と考えたうえでの、彼女なりの折衷案だったのだろう。その提案に、大智はまるで母親の言うことが絶対正義だと信じて疑わない子供のようにうなずいた。
そのときについていた番組は『アメトーク!』だった。彼女の白い肌にテレビの光が反射し、プロジェクターのようだと大智は思った。肌に残ったハンコ注射の「9×2」の痕が、そのスベスベで柔らかい肌とは対照的すぎて「ああ、この子は女の子なんだなあ……」などと、至極当たり前のことを思った。余裕なんてないのに、いやないからこそどこか自分たちがしている行為に現実味を感じなかった。まるで、もうひとりの自分がいるかのように感じた。
彼女が色んなモノを動かしている際、大智はどうしていいのかわからなかった。いつか父親と一緒に観た『アニー・ホール』のウディ・アレンのように気の利いたジョークを言えたら良かったが、そんな気の利いた言葉をかけることはできず、ひたすらに『アメトーク!』を観ていた。音を消していたし、さすがにそこまでの余裕はなかったので内容はちっとも頭に入ってこなかった。宮迫と何度も目があった。
今思えば、我ながらシュールな初体験だったが、そもそも恋愛も男女の関係もそういうモノなのだろう。本人たちはいたって真面目なのだが、周囲から見れば相当に恥ずかしいモノなのだ。「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ」という言葉があるが、大智としては「恋愛は近くで見るとシリアスで真面目な演劇、遠くから見ればシュールなコント」という感じだった。
その後、交際開始から半年経った頃、大智は彼女に別れを告げられた。大智がバイト先のべつの女子と仲良くしていたことに彼女が嫉妬し、また彼女がバイト先の別の男子と仲良くしていたのに大智が嫉妬したことが原因だった。付き合い方が大学生っぽければ、別れ方すら大学生っぽかった。
程なくして、彼女はバイト先を辞めた。その後で大智は気づいた。バイト中、気づけば彼女のことを探している自分に。彼女のことを思い出すのが嫌で、というか思い出すことを嫌だと思ってる自分が嫌で、バイトを辞めた。彼女が辞めてから、3ヶ月後のことだった。
それから、彼女――神楽紗英――とは一度も会っていない。
今でも、大智は『アメトーク!』を見るたび、紗英のことを思い出す。取引先を訪れるときに新宿に行き、新宿都庁を見ても思い出す。彼女と行った場所に行くと、いや降りたことがある駅を通過するだけでも、胸の奥の柔らかい部分に淡い痛みが広がるのだった。
○○○
『富川』を出る頃には、昼休み終了10分前になっていた。会社までの所要時間を考えると早足になる。
雑談しながら、ビルにたどり着いたあたりで、高田がつぶやいた。
「でもさあ。だいだいって案外、年下のが合う気がするんだけど」
「え?」
「だってお前って意外と面倒見いいとこあるだろ? 今はチームにもう年下いないけど、前はなにかと世話焼きしてたじゃん」
「あれは、そうすれば自分も楽になると思ったってゆーか……」
「絶対そんなことないだろ。だって、誰かができるようになればその分だけそいつの仕事が増える。自分の仕事を分けられるワケじゃない」
それは、たしかにそうだった。というか、忙しい会社はどこもそんな感じじゃないだろうか。
「年下かあ……そうなあ……」
ただ、大智は高田の言葉を素直には受け入れられなかった。葉豆との会話は、どう考えてもうまく噛み合っているとは思えないからだ。高田には当然話していないが、昨日一昨日とそんな感じだったため、大智は気の抜けた返事になった。
そして、ふたりはオフィスに到着。フロアに入った途端、
「大久保~っっっ!!! ちょっと来いっっっ!!!」
山岸の怒声が聞こえてきた。
こうしてまた、慌ただしく、恋愛のことなど考えられない午後が始まる。大智もすぐに紗英に関する記憶や思い出を、胸の奥底にしまった。
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