41 社畜は元カノとの出会いを回想する…
そんなふうにして、大智は帰路についた。代々木駅から最寄りの三軒茶屋駅は、山手線と東急田園都市線を乗り継ぐか、山手線で渋谷駅まで行き、バスで行くかの方法がある。大智の住むアパートから歩いて5分程度のところにバス停があり、ちょうどそこを通るバスがあるのだ。
大智は、このバスがなにげに好きだった。渋谷から坂をのぼり、池尻大橋を通って三宿で左折、世田谷公園の方向へと向かっていく。国道246号線は夜でも多くの車が行き交い、ヘッドライトが天然のイルミネーションを作り出す。景色は徐々に都心から住宅街へと姿を変え、バスのエンジン音と小さな揺れが、自然と思考をクリアにしていく。
斜め前の座席に20歳前後くらいの女の子の姿があった。女子大生と言った感じの風貌で、黒髪ショートカットという風貌や、スラリとした体躯であることから、大智には昔の紗英の姿を思い出させた。
彼女は文庫本を広げ、読書をしていた。そしてその行動は、大智にさらに昔の紗英のことを思い出させた。
○○○
紗英との距離が縮まったのが、バイト仲間との飲み会だったことはこれまでに何度か記したところだ。
だけども、じつは大智にとっては、その飲み会より出会いのほうが印象的だった。
大智がジムでバイトし始めてから1ヶ月半ほど経った頃、紗英と偶然、バックヤードのロッカールームで一緒になったことがあった。ほぼ同時期に店に入ってきたふたりだったが、大智がトレーニングエリア担当、紗英がフロント担当だったこともあり、会話らしい会話はそれが初めてだった。
なんてことのない会話をしたのち(なんてことのない内容だったのでこれは大智も覚えていない)、彼女が読んでいる本の話になった。
その本は小説の『最後の一文』に焦点を当てた、どこかの大学の研究者が著したモノだった。明治時代の文豪から現代の作家まで、多くの有名作品の末尾を取り上げ、そこから作品世界を捉え直す……的な、風変わりな本である。
こんな会話をしたと思う。
「あの、ひとつ聞いてもいいですか?」
「いいよ」
「書き出しじゃないんですか?」
「うん、普通はそっちだよね。名作って書き出しが印象的なのが多いし」
「ですよね」
「『吾輩は猫である。まだ名はない』とか『メロスは激怒した』とか『春が2階から落ちてきた』とか『おともだちパンチをご存知だろうか』とか」
前ふたつが『吾輩は猫である』と『走れメロス』なのは、それまで小説の類いをあまり読んだことがなかった大智にもわかったが、後ろふたつが『重力ピエロ』と『夜は短し歩けよ乙女』なのは、そのときにはわからなかった。
「でも私、天の邪鬼なんだよね」
「天の邪鬼」
「そう。あ、あとタメ口でいいよ。私たちほぼ同期だし」
「わ、わかった」
だが、内心困惑する大智をよそに、紗英はマイペースに話を続けた。落ち着いた雰囲気の語り口だが、声そのものは高く、かわいらしい声で、そのギャップが印象的だった。
「別にさ、書き出しが素敵な作品が嫌いなワケじゃないの」
「うん」
「でも、その良さを知ってる人がいれば、私はそこじゃなくていいかなって」
この時点で、大智は紗英に対して、独特なことを言う女の子だな……と思い始めていた。
「それに、終わりよければ全てよしって言うでしょ?」
「言うね」
「小説って、長い作品だと何十時間も付き合うことになるよね。スポーツしてる人だとわかると思うけど、娯楽の中でも、とっても長いほうだと思うの」
「たしかに」
「だからこそ、最後がいい感じで終わる作品は素敵だと思うし、なんていうのかな。ああ、この作者さんは真摯なんだなって」
「真摯というのは、読んだ人に対してってこと?」
彼女はコクンとうなずく。その仕草すら、優雅に感じられた。
「でもさ、思わない? 恋愛でもさ、出会いが印象的な人より、別れ方が印象的な人のほうが心の中にずっと居座って、なかなか忘れさせてくれない的な」
「そ、そうだよね」
話の流れ的になんとなく合わせたが、このとき大智はまだ童貞であり、ウソだったのは言うまでもない。
そしてなぜか、大智のその反応に紗英は困ったように首をすくめると、なにかをごまかすかのように小さく笑ったのだった。
○○○
ジムでバイトするのは、当然ながら体育会系の学生が多い。だからこそ、バックヤードで手作りのお弁当を食べながら、ひとりで静かに読書をしている紗英は、大智にとってとても印象的に映った。
その後、大智は紗英と少しずつ話すようになった。と言っても毎回5分とかその程度であり、結局仲が深まるのは件の飲み会にまで持ち越されることになったのだが、それでも、紗英が大智の心の中で、少しずつ存在感を増していくには十分な時間だった。
彼女はオトナびていて優雅で、理知的な面を持った女性で、それまで大智が会ったことがないタイプだった。
が、クールでありながら決して傲慢なところはなく、付き合い始めてみると、恋愛面では意外と古風でもあった。そこはある意味、彼女が持つさまざまなギャップの中でも、ひときわ印象的なモノだった。
どんなふうに古風かと言うと、大智がチキンゆえ、3回目のデートでやっと手を繋いだときも「ベストタイミング」と言ったとか、5回目でたどたどしい告白したときは「ちょっと早いけど……うん」と言ったとか、バイト仲間に対しても「恥ずかしい……」という理由で交際を明かさないでいようと言ったとか……まあそんな感じだ。
それでいて、情に厚く、奥ゆかしい面もあった。大智が熱を出したときは看病してくれたし、デートも派手なモノは好まず、お互いの懐事情を考え、お金のかからない遊び方を望んだ。外に出かけるときは、お弁当を作って来てくれたりもした。
大智が自分の甲斐性のなさを感じていると「そんなこと私は気にしてない」と言ってくれたし、彼女を楽しませられているのか不安になったときには「私は大智と一緒いられるだけで嬉しいよ」と言ってくれた。
まあ、「どうして俺なの?」と聞いたときに、「だって、私以外に大智の魅力って通じないから」と、冗談とも本気ともつかないテンションで返されたときは、思わずちょっと怒ったけれど。
でも、とても性格のいい子だったのは間違いない。美人は性格が悪いという言説が世の中にはあるけど、あれはウソだと大智はそのときに知った。
紗英にとっても、大智は初めての恋人だった。奥手な性格だったことに加え、中高大と女子校だったことがその要因だった。初めて話したとき余裕な対応だったし、「別れ方が印象的な人のほうが~」と言っていたので、このことを知ったとき、大智はとても意外に思ったのだが、彼女によると「ごめん、あれジョークのつもりだった」とのことだった。それを聞いたとき、大智は彼女があのとき見せた不思議な反応の理由が、少しわかった気がした。
○○○
そんな、印象的な出会い方をした大智と紗英だったが、自分以外の異性と仲良くしているところを見て、お互いがお互いに勝手に嫉妬し、別れるに至った。バイトも紗英が先に辞め、大智もそれから少し経って辞めた。
小説の終わり方について話すという、風変わりな出会い方をしたことを思えば、なんともまああっさりした、なんの印象にも残らない別れ方だった。お互いに子供だったのだ。
これはすべての男子がうなずく真理だが、男子は誰しも人生で一度は、年上の女性に憧れる時期がある。憧れるパターンは『年上だけど無邪気』『年上だし、内面も自分よりオトナ』や、そのミックスなど色んな場合があるが、大智にとって紗英は、恋愛面を除けば本当にオトナな女の子だった。1歳しか違わないとは思えないくらいに。
(紗英……ますます綺麗になってたな……)
大智は小さく上下に揺れるバスの中、ぼんやりと紗英のことを考えていた。
そして、昔のアレコレを思い出したうえで、こんなふうに思った。
(でもまあ、もう会わないんだけどな……)
そう、大智はもう、あのジムに行かないことを決めていたのだ。
理由は単純。自分にはもう葉豆がいるから。
そして、紗英に対して、少しの未練も持っていないことに気がついたから。
正直、少し前の大智だったら、どう思っていたのかわからないところだった。飲みの席で、高田に対して紗英がいかに素敵な女性だったかを語るくらいには、紗英のことが今でも忘れられていなかったし、未練もあったと思う。連絡先もわからず、何年も会っていない相手に未練というのは、冷静に考えてどうかしてると思う人もいるだろうが、実際そうだったのだ。
でも、葉豆という存在ができた今、いざ再会してみると、そこから関係性をどうかしたいという気持ちは沸かなかった。大学時代よりさらに美しくなった彼女に対し、嬉しいような気恥ずかしいような、不思議な気持ちになったのは確かでもあったが、そこ止まりだった。
正直、自分でも驚きだった。だけど、同時に安堵する気持ちもあった。
安っぽいテレビの恋愛ドラマなら、どう考えてもここで三角関係に突入するだろうが、自分にそんなことは起こらないことがわかった。
「山吹さん、ごめんなさい」
そう言いつつ、大智は山吹からもらった割引チケットをポケットを取り出すと、いつもより疲れた手でギュッと握りつぶした。
そのとき、ズボンのポケットに入れたスマホが振動するのがわかった。気づけば、バスは降りるバス停に近かった。大智はスマホを取り出しながら、停車ボタンを押した。
○○○
しかし、運命とはややこしいモノだ。ふたたび交錯した大智と紗英の人生は、思わぬ要因で継続することを、このときの彼はまだ知る由もなかった。
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