40 社畜は元カノと再会する…3

「もしかして……大智?」


 紗英が小さな声で尋ねる。キリッとした大きな瞳の中で、自分がコクンと顔だけを持ち上げてうなずくのがわかった。


(なんで紗英がここに……)


 背中を打ったせいか、それとも再会の驚きのせいか、声が出ない。


 大学時代は黒髪だった紗英だが、髪色は茶色に変わっていた。もともと垢抜けていたのがさらに洗練されているのが、ボルダリングの服装でもわかる。もしスーツとかオフィスカジュアル的な格好だと、どれだけ綺麗なんだろう……そう思えるほど、7年という時の経過が彼女をより美しくしていた。


(現実なのかな、これ……)


 大智はそう思う。きっと紗英も同じことを感じているのだろう、大智が尋ねたあとは、次の言葉が出てこず、ただ上から覗き込んでいるだけだった。


「え、もしかして喋れない感じ!?」

「ヤバい、どうしよ! ぼ、僕人工呼吸を……!!」

「やったれやったれ!!」


 と、そこで左右のデザイナー女性、エンジニア男性が割り込んできた。結果、大智はハッと我に返り、ぶちゅーっと人工呼吸の体勢に入ろうとする男性を押さえる。


「だ、大丈夫です! ケガもないので」

「え、ホントですか?」

「はい、本当です」

「じゃあ人工呼吸は?」

「結構です」

「そ、そう……」

「なんでちょっと悲しそうなんですが……」

「もー、心配したんですよー! とりあえず向こう座りましょう」


 エンジニア男性とあわやなやり取りをしたのち、デザイナー女性が切り替えるように言う。どうやら、紗英の声が小さかったことや、一瞬の交流だったせいか、男女はなにも気づかなかったようだ。


 ふたりに急かされ、大智は立ち上がった。紗英もこちらを気にしている様子だったが、割り込めなかったのか、少しの間、ひとり元の場所に佇み、そして、静かに違う場所へと歩いていった。




   ○○○



 その後、大智はイスに座って安静にすることになった。幸いにも打ちどころが良かった、いや良かったというのは語弊があるが、そこまで悪くなかったようで、ケガはしていなかった。


 とは言え、過去に腰を痛め、プロスポーツ選手の道を諦めた大智にとってはヒヤヒヤな出来事だったのは言うまでもなく、結局、この日は見学することにした。


 エンジニア男性は牛込まごめさん、デザイナー女性は若松さんという名前で、親切にも気にかけて近くにいてくれた。ふたりはこのジムが運営するスクール(平日夜の部)の会員で、すでにここに通って3年になるという。あと、驚くべきことにふたりの仕事はリアルにエンジニアとデザイナーであった。


 そうやってふたりと会話をしつつ、大智は改めて遠目から紗英の姿を見ていた。


 彼女は黒のタンクトップをインナーに、少しゆったりした白のTシャツ、そしてタイトなスポーツレギンスという出で立ちだった。スレンダーなのにまさに出るところは出ているという感じで、ちょっとなんというかチョイスが完璧すぎる。


 中でも、とくに視線を吸い寄せるのは、お尻から足にかけてのラインだった。スポーツレギンスを着用する際、身体のラインが見えすぎるのを嫌がってハーフパンツを上に履く女性は少なくないが、紗英はそのまま。スレンダーながらも女性らしい肉付きも感じさせる、色気に満ちた下半身だった。


 そして、そんなスタイルの美女がボルダリングするのだから、男性陣の視線を集めるのは当然の帰結で、そこかしこに「ほぅ……見事なカラダ……の使い方だ」的な顔をしている輩がいた。散々鼻の下を伸ばしたあと、ハッと我に返って神妙な面持ちで意味深にうなずく……という感じである。


 そんな男たちはさておき。


 紗英はとても、ボルダリングが上手だった。細身の身体をうまく使い、しなやかにコースをクリアしていく。その姿は洗練されており、可憐でもあり、ときに高貴さすら感じさせた。


(上手いな……何年やってるんだろ)


 学生時代から大智のハーフマラソンに付き添ってくれたり、一緒にスカッシュデートをしたり、そもそもジムでバイトをしていただけあって運動好きな子ではあったが、それでも当時よりずっと動けている気がした。


「大久保さん、やっぱ紗英ちゃん気になりますか?」

「美人ですもんねー、あの子」


 気もそぞろになっていたのだろう。馬込と若松がニヤリとしてこっちを見る。大智は意識を引き戻される。


「いや、気になるというか」

「隠さなくていいですよー。紗英ちんはうちのスクールのアイドルなんで」

「あ、彼女もスクールに?」

「ですです。ここに来始めたのはまだ半年くらいなんですけど、ボルダリングは大学のときからやってたみたいで」

「大学のときから……ってことは別れたあとに……」

「ん、なんか言いました?」

「いえ、なんでも」


 大智は笑顔でごまかす。つい、小さな声で出てしまっていたようだった。


(勝手に言うのは絶対ダメだよな……ここは彼女にとって大事な居場所っぽいし)


 大智はそんなふうに胸に誓う。実際、紗英は多くの人と顔見知りのようで、声をかけあったり、うまく登れたときにハイタッチしたり、クライミングの合間に歓談したりしていた。決してハイテンションではないが、落ち着いたオトナの雰囲気と、あとはゲンキンな話だが美人ゆえの加点もあり、周囲と上手く調和している感じだった。


 かつて付き合っていた彼女が、目の前にいる……嬉しいような困るような、恥ずかしいような懐かしいような、そこにいるのは今の彼女のはずなのに昔の彼女を見ているような、昔の彼女を見ているうちに昔の自分まで思い出してしまいそうな、身体の中にまだ彼女が残っているような……そんな一言では形容できない初めての感情に、大智は戸惑っていた。


(これが元カノってやつなんだな……)


 例えるなら、昔何度も通った想い出の場所に、偶然通りかかったときの喜びのような感じだろうか……いや、甘いだけで苦い感情もあるので、それとは全然違う。風景だけじゃ、こんなにも複雑な気持ちにはならないだろう。


(あんま見ちゃダメだよな……もう他人みたいなもんだし、傍から見れば気持ち悪い男にしか見えないだろうし……)


 そして、ふと冷静になった大智は意識的に紗英から視線を外す。


 と同時に、自分を戒めようとする。彼女はもうずっと前に別れた子なんだ。自分のことをどう思ってるかわからないし、きっと嫌いだろう。世の中には別れた女の子に対して「まだ俺のことが好き」的に思っている男子がなぜか結構いるけど、俺はあんなふうに痛くはない……などと言い聞かせて。



   ○○○



 講習を終えると(と言っても結局、落下のせいで満足にできなかったが)、大智は更衣室で着替えて、外に出た。


 と、タイミングがちょうど重なったのか、馬込、若松、山吹……そして紗英が通りかかる。楽しげに歓談していた前者3人は、そのままの流れで大智に話しかける。


「大久保さんじゃないですか!」

「お疲れさまです!」

「今日は楽しんでいただけましたか?」


 揃って外交的な3人に「どうもどうも」と、少々困惑しつつ、対応していると、自然と3人の奥側にいる紗英と視線が合う。


「……」


 視線が合った瞬間、紗英はビクッとしたように目を見開いた。驚きだけでなく、警戒心というのか、どこかこちらの出方を伺うようなニュアンスが浮かんでいた……が、どういうワケか、すぐにそれは消えた。


 紗英は、彼女本来の柔らかい表情を経たあとで、なにか言いたそうに口を開いた。


 そして、それは、大智がなにか言おうとして口を開いたのと、同じタイミングだった。


「……」

「……」


 時間が、ほんの一瞬だけだが、7年前に戻ったような気がした。


 しかし、結局、紗英は言葉を発しなかった。外交的な3人に遠慮するように一歩下がると、その場を見守るように微笑むのみ。どんな感情を抱いているのかは、今の大智には判別がつかなかった。


「そうだ、大久保さん。僕らこれから飲みに行くんですけどどうです?」

「自分もちょうど今仕事あがりで。もしよろしければ」

「行きましょ行きましょ!」


 その間も、押しの強い3人は大智に対して攻勢をかけていた。


「えっと……」


 彼らの言葉に、大智はもう一度、紗英を見る。が、彼女はなにも言わない。首を縦にも横にも振らず、静かにオトナびた微笑みを浮かべたままだった。


 結果。


 悩んだ末に、大智はこう答える。


「……もう今日は遅いですし、遠慮しておきます」

「そうですか。なら今度一緒に行きましょう!」


 と馬込が代表して言ったところで、山吹が前に一歩出て、なにか差し出した。


「これどうぞ!」


 反射的に受け取ると、それは回数券だった。このジムで使用できるモノのようで、『入会を考えている人に!!』との文字が目立つ。初回、つまり次回は無料で、その後3回分は1000円という料金だった。通常の半額近い金額だ。


「今、会員さん大募集中なんです! 大久保さん、絶対向いてるのでほんと来てくださいね!!」

「あ、えっと……考えておきます」

「約束ですよ!!」


 山吹は爽やかな笑顔で、大智の両手をギュッと握りながら訴える。顔をかなり近づけてきているのもあって、圧がかなりスゴい。


「大久保さん、待ってますよ」

「来てくださいね!!」


 そして、馬込と若松も手をぎゅっと握って再訪を呼びかける。ふたりの向こう側を見ると、紗英の姿はもうなくなっていた。

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