45 紗英の秘密1

 そんなふうに戸山家と楽しくもハードな週末を過ごし、月曜の朝。


「あれ……おかしいな……」


 大智は勤務先の会社が入ったビルの1階で、セキュリティゲートを通れずに困っていた。いつもカバンに入れているはずの、社員証の入ったケースがなかったのだ。


 大智の勤務先が入っているビルは、数十社が入っている、それなりに大きな建物だ。だからこそ、1階にゲートがあり、IDカードの役割も兼ねた社員証で入れるようになっている。防犯を考慮してのことであり、それなりの規模感のオフィスビルは今はどこもこういう感じだ。


 普段不便さを感じることは皆無なのだが、もしもカードを家に忘れたり、紛失すると厄介である。誰かについて入ることもできないし、来客者のようにゲストパスを発行することもできないからだ。(まあゲストパスを発行するにも、社内の誰かの手引が必要なのだが)


 こうなってくると総務部に電話する必要が出てくるのだが、代わりに電話に出てくれた社員によると、会議でもあるのか全員席を外しているという返事だった。


 そんなこんなで、せっかく早めに到着したにも関わらず、大智は1階で待ちぼうけをくらっていたのである。


「家に忘れたのかな……」

 

 一瞬そう考えるが、正直可能性は低いと思った。なぜなら社員証はカバンに入れっぱなしで、家で取り出すことはないからだ。


 となると、どこかで落とした可能性が出てくるワケだが、金曜の夜は問題なく退社していたワケで、落としたならその後。


(金曜の夜ってそう言えば……)


 そんなふうに思っていると、近くを通り過ぎようとしていたふたりの人が、近くで急に停止した。大智が視線をあげると、そこに立っているふたりの目が見開かれていることに気づく。


「あれ、もしかして大久保さんですか?」

「わ、ホントだ!!」


 どこかで聞いたことのある声の組み合わせ……大智は驚いた。そう、そこにいたのは先週金曜の夜、ボルダリングジムで会った馬込と若松だったのだ。


 馬込は半袖シャツにデニム、足元はスリッポンという出で立ち。若松はきのこ柄のワンピースであり、オフィスカジュアルだとしてもカジュアルすぎる格好だ。馬込はまだしも、若松はどう見ても会社員の出勤時には見えない。


「馬込さんに若松さん……」

「わ、名前覚えててくれたんですね!」

「嬉しいなー! てっきり私たちのことなんかもう記憶の彼方かなって思ってた」

「な、なんでふたりともここにいるんです……?」


 嬉しそうにはしゃぐ馬込と若松の一方で、大智は首筋にひんやり汗が流れるのを感じた。なのでそう尋ねると、馬込が驚いたように笑う。


「なんでって、そりゃここが勤務先だからですけど」

「勤務先……」

「ですです。あれ、言いませんでしたっけ、私たちデザイナーとエンジニアだって」

「それは聞きましたけど……」


 聞いてみると、ふたりは同じ会社に勤めているという。このビルに入っているスマホゲームの会社であり、いくつものヒットコンテンツを手掛けている会社だった。実際に遊んだことこそないものの、ネット広告にまつわる仕事をしている大智は当然コンテンツ名も会社名も知っていた。きっと社内には、この会社を担当している社員もいるだろう。


「で、大久保さんはなんでここに?」

「なんでって自分も会社このビルで」

「じゃなくて、なんで1階にいるのかって意味です。たぶんもう始業近いですよね?」


 ふたりの言ってることを理解した。ので理由を説明しようとするが、馬込がニヤリと笑っていたので飲み込む。


「当ててみましょうか? 社員証、なくしちゃったんでしょ?」

「なくしたか、はまだ決まってないですけど……」

「僕、社員証ある場所知ってますよ」

「えっ! どこですか」

「ボルダリングジムです、先週金曜日にお会いした」

「じつは大久保さんが帰られたあと、山吹さんから私たちに『大久保さん、社員証を忘れてる』ってLINEがあって。電話したけど、別の人にかかっちゃったみたいで」


 若松がそう説明してくれた。どうやら山吹から説明を受けたときに落とし、悪筆ゆえ電話もかかってこなかったようだ。


「というワケで大久保さん、次いつ来ます?」

「えっと、それは……」

「せっかくだし、練習もしていきましょうよ」

「そうですよ! 私、すごく向いてるな~って思いましたし、山吹くんも『来てくれないかなー』って言ってましたよ」

「……」


 大智は大いに悩んだ。ボルダリングジムに足を運ぶということは、紗英に会う可能性があるということだ。葉豆との関係性を真剣に考える今の自分には、なるだけそういうイベントは起こしたくないし、だいたい紗英だって自分には会いたくないだろう。


 しかし、一方で社員証の再発行が面倒なのも事実だった。総務部に伝えたうえで、再発行の手続きをしなくちゃいけないし、もしかすると始末書を書くことを求められるかもしれない。大智の会社はそういうところには結構うるさいのだ。あと当然、上司の山岸の耳にも入るだろう。そこはどうでもいい気がする。


(仕方ない……取りに行くだけ取りに行って、すぐに帰るか……)


「わ、わかりました……今日、仕事終わりに取りに行きます」

「お、マジですか! 実は僕らも行くんですよ!」

「良かったら一緒に一緒に練習しましょうよ~」


 だが、当然ながら馬込と若松は一歩も引かない。脅威の押しの強さだ。自分たちは仕事始まらないのだろうか。


「で、でも、なんて言うか……最近結構運動してるし」

「あれ、運動不足でジム来たって言ってませんでした?」

「割引チケットなくしちゃったし……」

「あれもなくしたんですか。大久保さん、意外とおっちょこちょいなんですね?」

「こらこら馬込くん、あんまからかっちゃいけないよ」

「ごめん若松さん」


 そこまで言い合うと、馬込と若松はまったく同じタイミングで、大智のほうを向く。


「「それで、来ますよね??」」



   ○○○



 勤務終了から、1時間弱後。


 代々木から歩いて3分ほどの場所にあるボルダリングジムに、大智はふたたび訪れていた。


 退勤後、朝会った場所で待ち合わせたので、馬込と若松も一緒だ。ふたりはここに着くまで、ずっと楽しげに喋っていた。あまりにも仲がいいのでどういう関係なのか尋ねたが、べつに恋仲ではなく、ただの友人らしかった。


(紗英……来てるのかな……)


 正直、彼女が今日来るのか気になって仕方がなかったが、意識すると途端に行動できなくなるのが大智だ。また前回、馬込が紗英のことを男性陣からとても人気だと評していたため、もし今また尋ねると、紗英のことを異性として気になっている感が出てしまう……と思ったのだ。


 なのでジムに着いたときも、大智は思わずガラスのドア越しに中を覗き込もうとしたのだが、


「なにやってるんですか!」

「暑いんですし早く入りましょう!」


 馬込と若松はそう言い、大智の身体をくぐり抜ける形でドアを押した。結果、大智は支えを失い、また足が絡んだこともあって倒れ込む形で入店してしまう。


「い、痛い……ふたりとも急に押さないでください!!」


 振り返りつつ馬込と若松をなじると、ふたりは小さくごめんと合図はしたものの、さほど気にした様子もなく、中へとスタスタ入っていった。ドアの前で止まるほうが悪いんでしょ、という感じだ。まあ実際、それもそうではある。大智だって駅の改札を出たとこで立ち止まる人に「なんでそうなる」と思ったこともあるし、となればドアの前で立ち止まるのも同じだ。


「そりゃドアの前で止まった俺も俺だけど……でも、さすがにちょっと酷いだろ」


 とはいえ、手をついて倒れたので恨めしい気持ちもあった。楽しげに他の仲間たちに挨拶するふたりの声は、もはや遠くから聞こえている。


 と、そのときである。


「あの、大丈夫ですか……??」


 上から優しく、どこか甘さを含んだ声が聞こえてきた。少しだけ視線を上げると、そこに綺麗な手の平が差し出されていることに気づいた。ボルダリングをしているとは思えない手だ。きっとフロントのスタッフさんとかだろう。


「あ、すいません」


 そう思って大智は手を伸ばすのだが、手を借りて立ち上がったあとで、視界に飛び込んで光景に驚いた。そう、そこにいたのは紛れもない、紗英本人だった。


「……」


 途端に鼓動が早くなるが、言葉が出てこない。会う可能性があるのはわかっていたけど、まさかこんなに早く会うとは思わなかった。


 だが、紗英はと言うと、ぎこちなくなっている大智をよそに、


「大智、久しぶり」

「久し……ぶり……」

「あ、でも久しぶりだったのはこの間か。今日も来たんだね」


 どこか自分に言い聞かせるように言うと、優しく微笑む。


 まるで、特別なことなど、何一つ起きていないかのような話しぶりだった。

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