46 紗英の秘密2
「今日も来たんだね」
紗英の、つややかで色気のある口元から、特有の甘さのある声が放たれる。口元にある小さなほくろが上下し、運動後ゆえかニオイ立つ彼女の香りに、クラクラしそうになった。
今日の彼女はスポーツブラにショートパンツつきのレギンスという出で立ちで、つまり、お腹を出していた。すっと腹筋のラインが入っており、絶妙なバランスで女性らしい丸みと健康美が両立していた。男性陣の視線を集めているであろうことは、想像に難くない。
「うん……社員証、忘れちゃって」
なんとか視線をあげつつ、大智は返す。
「ああ、そうなんだ……山吹さん、今レッスン中だけど待つ? 他のスタッフさんに聞いてあげてもいいけど」
「あ、でも待つよ。手間かけるのも……だし」
「そっか。わかった」
なんてことのない口調で、紗英は続ける。
実質的に顔を合わせただけだった前回。そういう意味でも、元カノとちゃんと話すのは、大智にとって初めての経験だった。
だからこそ、どう接していいのかわからず、距離感も発する言葉もつかめないのだが、紗英は違うようだった。7年ぶりに再会したとは、しかもその相手が一時的とは言え、身も心も捧げあった相手だとは思えないような、ニュートラルな態度だったのだ。
(なんか、俺ばっかり意識してる感じだな……女の子ってこういう感じなのか?)
だからこそ、自然とそんなふうに感じるのだが。
「……」
気づくと、紗英がなにか言いたげな表情を浮かべていることに気づく。片側の頬だけ小さく膨らんでおり……こんなクセあったっけな、と思った。少なくとも、昔は見たことのない仕草だった。7年も経てば新しいクセも身につくのだろうか。
「ど、どうかした?」
「いや、どうもしないけど」
「けど」
「ただ、せっかくだし、少しやっていったらどうかなって」
「……」
○○○
「大久保さん、そこで右足を出してください!」
「こ、こうですか!」
「そうです! で、次に左手でそこを掴んで」
「え、ここですか!?」
「そうですそこです!」
「人体の構造的に無理じゃないですか!?」
「いけますよ! 大久保さん、身体硬くないので!」
「柔らかいとは言わないんですね」
「はい、柔らかくはないです!」
紗英との会話から1時間後。大智は山吹の指導を受けながら、すっかりボルダリングに打ち込んでいた。
前回は急に、勝手にレベルアップして難度の高いコースにチャレンジし、情けなくも背中から落下してしまったが、ひとつずつ上げていくとなんとかレベル8程度までは食いつくことができた。不規則にテープがあるように感じていたが、身体の動き的に少しずつ難しくなっていく&ひとつ前のコースでやった手の運び足の運びを活かすことができるという感じになっていたようだ。スポーツも学業と同じで積み重ねが大事……という、当たり前のことをここにきて再確認した感じである。
山吹の熱血指導を終えると、大智は空きスペースのベンチに腰かける。すでに汗だくで、上半身だけでなく腰や足も疲れが出始めていた。
紗英は今、難度の高いコースにいた。斜度は140度で、大智が登っていた壁と比べればかなりの傾斜に思える。それゆえ、もはや足で立っているという感じは一切ないのだが、紗英はさほどキツそうな様子もなく、身軽にひょいひょいひょいとクリアしていった。最初から最後の着地に至るまで常に軽やかで、その肉体のしなやかさが強調される感じ。
「少しやっていったらどう?」
紗英からそう言われたとき、シンプルに大智は驚いた。てっきり、彼女は自分との交流を拒んでいると思っていたからだ。
そして、驚きが大きかったのもあり、反射的にうなずいてしまった……のだが、初心者の大智が紗英と一緒に練習できるはずもなく、山吹に手取り足取り教わっていた……という感じだ。
「神楽さん、上手ですよね」
隣に山吹が座ってきた。
「歴だけだと僕より長いんですよ」
「へえ、そうなんですね」
「始めた年齢は同じなんですけど、僕のが3つ下なので」
となると、山吹は大智より2歳年下のようだ。
「あんな格好いいのに普段は広告代理店で営業されてるんですって。汐留の」
「汐留の」
個人情報を勝手に喋って大丈夫なのだろうか、と若干不安になる。が、とは言え聞いてみたい気持ちもあり、とがめる言葉は出ない。
「なんていうか、『つえーっ』って感じですよね。自分、勉強できなくて大学もFランなんで、一流企業で働いてて美人でって、雲の上の存在というか」
「雲の上……たしかに」
「認められるとそれはそれで嫌ですけど」
「あ、すいません。つい」
「いえいえ、いいんですよ」
そう言うと、山吹は爽やかに笑う。相変わらず裏表のなさそうな笑顔だった。
大智には紗英がどこの会社に勤務しているかなんとなくわかった。広い意味で言えば競合である。大智の勤務先以上に社員数が多いところなので、もちろん彼女の話を風の噂として聞いたこともなかったが、「意外と近くにいたんだな……」と思うのも事実であった。
「もし良かったら今日の夜、ごはんみんなで一緒にどうです?」
「ごはん、ですか」
「はい。馬込さん若松さんとよく行ってるんです……って前回も誘いましたよね」
「あ、はい……」
もちろん、大智は断るつもりだった。社員証は先程無事回収したし、さっきはなんとなく流れで紗英の提案にうなずいてしまったが、もし飲み会に行けば本格的に話す機会が生まれてしまう。
でも、頼み事を断るのが苦手な大智としては、熱い目で見つめられながら誘われると、もはやどう言えばいいのかわからなくなっているのも事実で、
「えっと……」
その文言がすぐには出てこない。すると、山吹は大智が行くか行かないかを迷っていると勘違いしたようで、
「じゃ、どうするか後ほど聞かせてください!」
そう言うと、壁のほうへと走って行ってしまった。馬込、若松と合流すると、ふたりがこちらを見て手を振ってきた。小さく手を振り返しながら、大智は思う。
「ヤバい……余計に断りにくくなったやつだ……」
だが、自分の受け身な性格については誰よりも熟知している大智である。
「仕方ない。そろーっと帰ろう……」
○○○
大智はトイレに行くフリをして帰ることにした。普通の人なら、断るより勝手に帰るほうが失礼に感じるかもしれないが、NOと言うのが苦手な人間なので仕方がない。会社だとパワハラ上司の部下を引き受けることになるので、それくらい許してほしい……という甘えも正直ある感じだ。
馬込と若松の隙きを見計らい、そろーっとロッカールームに行く。中は誰もいなかった。素早く着替えると、シャワーも浴びないまま外に出る。汗をかいて気持ち悪いが、今日は仕方がない。
だが、フロントの側、自動販売機の近くで、見慣れた顔が待ち受けていた。
「あ、もう帰るんだ」
そこにいたのは紗英である。いつの間にかジムエリアから離れていたようで、すでに私服へと着替えている。薄いベージュのセットアップにシンプルな白シャツという出で立ちで、デキるオトナ女子、という感じだ。
トレーニング後に飲むプロテインドリンクを購入していたようで、カバンは肩にかけ、手にドリンク、財布、スマホを持っていた。
「あ、いや帰るというか……」
「もしかして飲み会誘われた感じ? あの人たち、押しがホント強いでしょ?」
「ははは、そうだね……」
「私も最初そうだったもん。まあ仲良くなれたし、みんな仲良しだから結果良かったんだけど」
なんとなく帰ると言うこともできず、言葉を濁していると、紗英のスマホが鳴り始めた。
「あ、ごめん上司からだ。電話出るね」
「もちろん、どうぞ……あ……」
そのとき、大智はスマホを耳に当てたことで、視界の中にあらわれた紗英の手に釘付けになった。厳密に言うと、左手の薬指にあるものに視線を奪われたと言うべきか。
そう、そこには指輪が輝いていたのだ。
(指輪……ってことはつまり……)
紗英は奥ゆかしい性格の持ち主である。大智と付き合っていたときも、他のバイト仲間に知られるのが恥ずかしくて、お互いに黙っているようにしていたくらいなのだ。
そんな彼女が左手薬指というわかりやすい場所に指輪をしている……大智だからこそ、重大さが認識できた。
「はい、ではそういうことで……ごめんね、話の途中に」
「いや、いいんだ……紗英、それって」
「ああ、これ? 指輪。ボルダリングのときは邪魔になるから外してるんだ……って、そういう意味じゃないよね?」
黙ってうなずく。すると、紗英はそれまでとなんら変わらない、大智を一切意識していないのがわかる声で、こう言った。
「私、婚約者がいるんだ」
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