お祖父ちゃん小話 ―初めの綻び―



 勇者に追い詰められた魔王は再起をかけ、世界を跨いだ。

 異世界の理を穿ち、無理矢理にこじ開け、転移を果たした。が、身体はボロボロで、魔力も尽きかけていた。

 早く回復せねば。そして彼の世界へ舞い戻り、あの者共に復讐を!

 人の世を破壊し、絶望へ叩き込んでやる!

 目をギラつかせ、漆黒に染まる新たな世界を魔王は眺めた。

 やけに暗い。ここは人里離れた場所なのだろうか?

 穴を穿った空間の傍には大きな木があり、縄がぐるりとまいてあった。

 何者かがいる土地のはず。と、かさり、という音が聞こえ、魔王は身構えた。

 息を殺して相手の出方をうかがう魔王に。

「……………誰か、そこにいるの?」

 小さいが、けして間違えようがない声音がかけられた。女だ。

 さて、どうしたものか。騒がれても面倒だ。殺して食ってしまおうか。

 魔王がそう考えているとも知らず、その者は近づいてきた。

「もしかして、焼け出された人? そうなら、お寺を使って。夜露くらいはしのげるから…………」

 気遣わしげな声は、しかし魔王の姿を認識したのだろう、はっと息を呑むものに変わった。

 魔王の目の前には、見たこともない服装をした華奢な女がいた。

 その顔は汚れ、あまり健康そうには見えない。髪もぼさぼさで年頃の娘であるというのに、それは粗末な布でくくってあるだけだった。

 もしや、戦か? と、女が口にした言葉を理解し、魔王は推測した。

 界隈の空気が殺伐とし荒んでいるのも、そうであれば納得できる。

 これは好都合だ、と魔王は思った。混乱に乗じて紛れ込めば良い。

 これからの算段に頭がいっぱいになっていた魔王は、うっかり目の前の女のことを失念していた。

 彼女は通常とは違う魔王の見た目に怯んだものの、逃げはしなかった。どころか質問を重ねてきたのだ。

「貴方、怪我をしているの?」

 見るからに異形の姿をしているというのに、娘は恐る恐るというように魔王を見ていた。

「何故、そのようなことを聞く」

 魔王のそれは呟きにも似ていた。しかし言葉は彼女の知っている言語に置き換えられ、伝わったらしい。

 彼女はきっ、と、魔王を睨むと、さっきまでとはまったく違う目で叫んだ。

「傷ついた人を心配したっていいでしょう!」

 魔王の問いは、彼女の琴線に触れてしまったようだ。

 ずんずんと近づいてくると、彼女は躊躇わず魔王の腕をつかんだ。

「とりあえず、治療します。灯りのあるところに行きましょう」

 魔王の身体を支えるように腕の下にその華奢な身体を滑り込ませ、彼女は歩きはじめた。

 妙な娘だ、と魔王は思った。どこか自棄になっているようにも見える。

 と、魔王の耳に彼女の小さな呟きが聞こえた。

「誰かが死ぬを見るのは、もうたくさんよ」

 いかにも脆弱な人間が言いそうなことだと魔王は思った。しかし、弱々しいその娘の手を振り払う気になれないのは、やはり弱っている所為なのだろう、と魔王は結論づけた。

 触れた温かさにほんの少し心が動かされていたことも気付かずに。



 この時の魔王には、魔力が回復した後も彼女から離れがたくなる己や、さらに彼女と結ばれ子供まで授かる未来など、欠片も考えられなかった。

 いわんや、人間を守る、この世界の安定を担う管理者になることなど、むろんのこと。

 綻びはほつれ、絡まり、また紡がれる――――物語の始まりは、また。






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