第5話 どんな手が木を叩くのか?

 三面鏡の前で、ママは睫毛まつげに気をつけの号令をかけている。


 金色の細い骨組みでできたアゴを容赦なく閉じ、黒い唇が睫毛をくわえると、目蓋がほんの少しまくれて肉色に濡れた内側がちらりとのぞく。

 次は、しゃちほこばった睫毛に、ねっとりと黒光りのする小さなブラシをなでつけながら、ゆっくりと太らせてゆく。


 ブラシを安全ピンに持ち替えて開くと針のほうを目に向ける。太くだらしなくもたれあった根元に針を突き刺し、ひきあげて別れさせる。

 これを恐ろしい速さで幾度も繰り返す。

 声をかけたら、手元が狂って目を刺してしまうだろうか?

 

 十三曲目がはじまってしまった。

 

 気づいたからには、もう思い出の中には逃げこめない。


 ファンファーレに続く華やかで軽快な前奏。歌声は、どこか遠くから聞こえてくるようでもある。賑やかで、楽しい気分になる音楽だ。

 

 でも繰り返し聞かされるうちに、歌の途中で怖い音がするのに気づいてしまった。


 ふいにすべての音がやむ。

 一瞬の静寂を破って歌い手が低い声で語りかけると、木製のドアを重々しくノックするような音が二つ返ってくる。

 それが返事であるかのように。


 そのあとは何事もなかったように陽気な調子を取り戻すけれど、気味の悪いノックの音は私の耳の奥にとどまる。

 

 どんな手が木を叩いたのだろう?

 考えだすと怖くてたまらなくなる。

 とにかくあの音を耳に入れたくない。

 せめて今だけでも。


 思い出に逃げ込めないなら、ママに話しかけるしかない。でも、何を?


 もうすぐ音楽がやむ。


 なにも思いつかないまま呼びかけてしまう。

 針を動かす手がとまり、ママがこちらを振り返る。

 お化粧が途中だ。

 顔の上半分はできているけど、下半分は白っぽい。


「今日の、お化粧、濃いね」

 見たままの印象が、そのまま言葉になってこぼれてしまった。


 ママは、化粧台を両手で激しく叩いて立ち上がった。

 口紅がきれいな色になるようにと、肌色に塗りつぶされた唇が開かれ、全ての音をかき消した。

「濃くないわよ」

 

 私の「ごめんなさい」は華やかなメロディーに埋もれてしまい、かわりに熱い涙がにじんだ。

 怒鳴られたからじゃない。

 最悪なことしか言えない自分が情けないから。


 ママは三面鏡には戻らず、仕事机のパソコンで、さっきと同じようにメールと銀行口座のチェックをはじめた。

 赤いAのマグカップに手を伸ばし、不味くて黒い液体を喉に流しこむ。

 

 鳴りやまない音楽に、終わりのない探しもの。時間の感覚を無くしてしまいそうになったそのとき、携帯の着信音が鳴った。


「はい。……はい。今から出ます。それじゃ」

 

 三面鏡に戻って手早く頬と唇に紅をさすと、見慣れた美しい顔ができあがった。


 ママは駆け寄ってきて、私のむきだしの二の腕をつかんだ。

 スズランの花のようにうつむいてふくらんでいる半袖をつぶさないように。

 ママは怖いくらい真剣な表情で私を見た。


「今日の面接がうまくいかなかったら、私たちは終わりなの。何があっても文句を言わず、愛想よくして。大人の話がわからなくても質問しないで」

 

 なにを、いまさら。

 今日が大事な日であることも、ママが抱えている問題も、私はちゃんとわかっている。

 それに、私は黙って待つことにかけては専門家といっても過言ではない。

 そのこと証明したいので『わかっているし、ちゃんとやれるよ』のかわりに黙ってうなずいた。


 ママはもう一度念を押した。

「どんなことがあってもよ」


 私も『まかせてちょうだい』のかわりにもう一度、しっかりとうなずいた。

 ママは私の両腕を離すと戸締りをはじめた。そして最後に、音楽をとめた。


 ママは玄関のドアを開けて、あたたかい光のなかに一歩踏みだした。


 どうかママの願いがすべてかないますように。

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