第38話 ツナ

 私が車庫から出ると、彼女は監視カメラに大きく手を振り、扉が閉まるのを見届けずに歩きだした。

「さあ、階段を上って庭へ行きましょう。今日の腕の運動は終わったけど、足の運動も必要だから」

 ほかにどうしようもないので、控えめに微笑み返した。


 真ん中がすりへった古い石段を上がると、その先は路地だった。建物の壁と高いへいに挟まれていて薄暗い。塀の下には羊歯シダが隙間なく生えている。

 暗緑色の茂みから、すっと黒いものが出てきた。薄闇の中で、どきりとするほど目が黄色い。


「ハーイ、ツナ」

 彼女が明るく声をかけると、その猫は羊歯のマントをゆっくり脱ぎ捨てた。顔の上半分と背側が黒く、腹側は真っ白だ。でようとする彼女の指の匂いをしきりにいでいる。

「本当の名前は知らないけど、私はツナって呼んでる。この猫、ツナマグロが大好きだから」

 

 そっと手を伸ばして耳の間を撫でながら、私も猫に挨拶した。

「ハーイ、ツナ」

 ふと、彼女が私につけた呼び名がひらめき、口元が緩んでしまった。

「私はロブスターだよ」と、心の声で自己紹介した。


 撫でられるだけでエサにはありつけないと悟ったらしく、ツナは悠然ゆうぜんやぶの中へ戻っていった。尻尾まで隠れた途端、茂みをざわつかせて塀に飛びつき、ひょいと登りきった。


 塀の上には無数のガラスが埋め込まれている。ビールやワインの瓶らしき、色も大きさもバラバラな破片が先端を空に向けている。

 塀を超えさせないために工夫したつもりだろうか。敗戦後の貧しい時代にできて、そのまま放置されてきた遺物みたい。


 そんな塀の上をツナは悠々と歩いてゆく。日当たりの良い所で立ち止まり、黒い毛並を輝かせる。とげのような歯をむき出して、あくびをひとつ。片方の前脚をぐんと伸ばし、細かく震わせストレッチを終えると、ついと塀の向こう側へ消えてしまった。


「人の引いた境界線なんて、ツナには関係ない」

 そう言った彼女の目は、隣家の塀よりもっと遠くにあるものを見ているように思えた。


 甲高い羽音が、彼女を我に返らせた。

「こんなところに長居したら、蚊に刺されちゃう」

 大股で逃げていく彼女を追いかける。私の血を吸った蚊を「リサ」と呼ばずにすむよう、あちこち両手でピシャピシャ叩きながら。


 路地を折れて、屋敷の裏手にまわると竹林があった。自然のまま、というわけではない。建物の近くは、敷石が平らで人が通れるようになっているけど、竹の方へ近づくにつれ、波がうねるようなリズムで庭石が置かれている。


 絶え間なく降る葉擦はずれの音と、かすかな水音。まるで時を無くしたような神秘的な空間。


 そこへ、時を刻む音。


 音の主は鹿脅ししおどしだった。近寄って、澄みわたった水を覗きこむ。水面に映る自分が、こちらをひたと見つめ返している。


「パーティの夜はライトアップするの、ほら」

 彼女は大きな庭石に隠された投光器を指さした。

「とっても美しいの。ゲストはみんな驚いて、喜んで、噂する」

 建物には、竹庭を眺めるための大きな窓がある。窓ガラスの向こうに、一部の隙もない美しい庭を賛美する、着飾った人々の顔が見えるよう。


 竹の緑に目が慣れると、ところどころにかえでがあるのに気がついた。季節が移れば楓の葉は緋色ひいろに染まる。竹と石と水の静謐せいひつな美しさをたたえた庭が、一年に一度、紅くはなやぐ。

 

 その様子を思い描いていると、途方もない考えが浮かんだ。

 鹿脅し、昼と夜、めぐる季節が時を刻む。

 ここは、ミンラが設計した大きな時計の中だ。

 それを人々がガラス越しに見入る。圧倒的な美しさに時を忘れて。


 こんな美しい場所に、私が手を加えるなんてとんでもない。

 首を振って、ここに種を植えるつもりはないことを伝えた。彼女は軽く頷き、先に立って竹林の裏にまわった。

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