第45話 狼の腹の中

 タカシの「チッ」という舌打ちの音が、まるでママの言葉にむちをふるったように私の耳に届いた。


「そういうの、大っ嫌いなんだけど。皆がやっているから仕方ないっていう言い訳。名字みょうじが同じでないと婚姻届を受理しない国なんて、もう日本だけなんだよ。

 夫婦別姓を一切認めない理由は、姓が違うと先祖代々の同じ墓に入れないからだってよ。日本人は墓に入るために生きているのかよ。

 だいたいブッダが『別姓の家族を同じ墓に入れてはならない』なんて了見りょうけんの狭いことを言ったと思うか? ちょっと考えりゃ、わかることだろ。

 思考停止に慣れた奴らのカビの生えた制度に、こっちがあわせてやる義理はない。婚姻届なんか、やめとけって」


「じゃあ、結婚したことをどうやって証明するの?」

「証明したじゃないか。ボスとマダムにフィアンセだって紹介しただろ。オレ達の命綱で、おしどり夫婦のブランド力を信じている二人に紹介したからには、滅多なことができるわけないだろうが」


「それはそうだけど。それだけじゃ世間では通用しない。ここは日本なんだから」

 ますます混乱してきた。

 あのママが「世間では通用しない」とか言いだすし。


 だいたい、名字がどうこうの前に、借金を残して逃げた奴と結婚しようとするところからして間違っている。

 知らない人の車に乗ってはいけないと子供に教えるなら、大人だってろくでもない奴の車には乗らないことを徹底すべきだ。


 苛立ちをあらわにしたタカシが、きつい視線をママに送った。

「おまえ、何言ってんの?」

 やった、ついに来た。私が待ち望んだ展開だ。


 二人が愛しあっているわけがない。

 お互いに相手を利用しようとして近くにいるだけなのだ。そして、それをタカシのほうがずっと上手くやれている。

 以前もそうだったし、これから先もずっとそうに違いない。


 ママは賢い人だけど、タカシのように話をじ曲げたり嘘をついたりできるほど柔軟ではない。だから、タカシが相手では常にが悪い。

 昔はよくわからなかったけれど、今ならはっきりわかる。

 ママはタカシと一緒にいたらダメだ。


 ママは誰とも目をあわせようとせず、前だけを見て運転している。

「それだけの面倒な手続きをするほど、私が真剣だってことを示したいの」

 その先は英語で話を進めた。


 あの屋敷で、私は英語が聞き取れていた。

 もしかしたら、私は自分で思っているより英語ができるのかもしれないし、アイメルの実を食べて賢くなったのかもしれない。なんて、ちょっといい気分になってた。とんでもない勘違いだった。

 あそこで私に話しかけた人々が、私にも理解できるように表現を選んでいただけだったのだから。


 今、ママは私には聞かせたくないことを話している。だから、私が理解できないような言い方を、あえて選んでいる。

 鮮やかな唇の間からは、アルファベットが切れ目のない煙幕のように噴き出している。

 話の内容は、ほんの少しもわからない。


 タカシは目を丸くして聞き入り、相槌あいづちがわりにうなり声を漏らしている。そして、私をじろじろ見てくる。私の表情から話を理解しているかを読み取ろうとしているのだろう。


 読み取らせるものか。

 何もかも承知しているふりをして表情を変えず、まっすぐ前を向いてタカシを無視した。


 タカシはママに視線を戻し、英語で質問した。

「オレに出来ることある?」

「いいえ」ママが英語で答えた。

 そして二人とも黙り込んだ。


 派手な言い争いが始まって破談になることを期待していたのに、わけもわからず話がまとまってしまったようだ。


 でも、このままでは済まさない。名字のことは私の問題だから。

 いつも言われているもの、『自分のことは自分で決めなさい』って。

 今が、その時だ。


 沈黙を破って堂々と宣言した。

「私は名前を変えたりしない。ただの同居人と同じ名字にするなんて、絶対に嫌だからね」


「そりゃそうだ」

 タカシは声をあげて笑い、おどけて両手を上げた。

「まあ、親子の問題は親子で解決してくれ。オレは口を挟まない」

 怖がるふりをして、一人でにやけている。

 タカシを笑わせる気も、タカシに利用されるつもりもなかったのに。


 ここは狼の腹の中じゃないか! 私は狼の栄養になってる。


 こめかみの奥から、ふつふつと猛々たけだけしい感情がいてきた。

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