第46話 引き絞った弓
「渋谷駅の近くまで行ったら、車を返してくれ。この指輪を借りた相手に、保証金代わりとしてパスポートを預けてあるんだ。これから取り戻しに行かないと」
半開きになった唇を閉じると、ママはウィンカーを点滅させて、ゆっくりと広い交差点に入っていった。
「六本木通りのほうが早かったのに」タカシが小声で文句を言った。
「私、高架下を走るのは嫌なの」ママはピシリと言い返し、再びスピードを上げた。
ママが選んだ道は車道も歩道も広々としている。
傾いた太陽が
バックミラーに映るサングラスが
私は合図を待ち続けている。でも、ママは私を見ない。
携帯が鳴った。有名なスパイ映画のテーマ曲だった。
電話にでたタカシは、やたら威勢よく「イエッサー」と繰り返した。通話はすぐに終わった。
「ボスから、出張の件で連絡がきた。おまえによろしくって」
突然、ママがハンドルにしがみついて笑いだした。咳き込むようして笑いをこらえ、目尻の涙を薬指でぬぐった。
「それって、自分がジェームズ・ボンドで、ボスがМってこと?」
全然おもしろくないのに。
タカシのことは、知れば知るほどうんざりする。
「まあ、そういう深層心理なのかもな。実際、オレはボスの
二人は大声で笑った。
タカシが静かになっても、ママの笑いの発作は収まらなかった。止めようと努力しても、抑えたぶんが噴き上がってしまうのだ。
野太い声が、くぐもった笑いを押し潰した。
「そういや、おまえはガイジンとシンガポールで会社つくって共同経営してるんだよな。それこそ、名前なんか変えちゃって大丈夫なのかよ。それとも、もうダメになったのか?」
そのガイジンとは、紅茶の師匠のことだ。
真顔になったママは、最後の質問にだけ答えた。
「いいえ」
「でも、そっちが絶好調なら、今回の話には乗らないよな。
おまえ、
共同経営なんて甘いことを言う男を信用して、紅茶の師匠だなんて
おまえはさぁ、昔からワキが甘いんだよなぁ」
「美人だから、誘惑が多いのはわかるんだけどさ」
タカシは手を伸ばし、ママの太腿を軽く叩いた。
ママは無反応で、ひたすら車を走らせている。愚か者を黙らせる切り札を持っているのに、使うつもりはないらしい。
でも、私は違う。
「紅茶の師匠は、女の人」
くるっとタカシの首が回った。
その間抜け面に、蔑みと憐れみの混じった冷たい視線を投げてやった。
ばつが悪いのか、それとも頭が悪いのか、まだタカシはへらへらしている。ママに向かって、言い訳をするように呟いた。
「……まあ、『女の敵は女』とは、昔からよく言ったもんよ」
舌先に冷たい怒りをこめて、さっきのタカシの言葉を引用してやった。
「女の敵は女だなんて、思考停止に慣れた奴のカビの生えた
今度こそ、振り返ったタカシの表情は引きつっていた。
私の閉じた唇が、引き絞った弓の形になる。こっちはもうずっと前から怒っていて、戦う覚悟はすっかりできている。
上半身は徐々に鎌首をもたげて膨らませるイメージで。
すうっと背中が伸びた。
抑えていたものが力に変わり、身体の隅々を満たしていく。
タカシは私のほうに顎をしゃくって、ママに怒鳴った。
「どうにかしろよ!」
私は強い。
「自分でどうにかすれば? 借金みたいに、ママに責任を押しつけるな!」
頬を打たれたように、タカシの首が回った。
私の目を見て、ママに視線を移した。横顔の開いた口が大きい。
「あの金、自力で返済したのかよ? あの時、オレの弁護士を紹介してやっただろうが」
タカシに負けない大声で、ママが言い返した。
「それは私が望まないやり方だった。何度もそう言ったはず」
タカシは自己破産して、ママにも同じことをするように勧めたのか。そして、ママはそれを断ったのだ。いろんなことが一気に
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます