第17話 ロミオとジュリエット

 そんな私の心を最初にとらえたのは、舞踏会でジュリエットが弾くマンドリンの曲だった。


 軽やかな旋律にのって、密林の鳥のように求愛のダンスをするロミオ。

 ロミオから目が離せなくなるジュリエット。


 ひらひらと舞い降りては、軽やかに舞い上がる装飾的なバイオリンの旋律がマンドリンの音に重なる。異なる種類の弦が美しく絡みあう旋律はやがて、沸き立つ夏空の雲のような管楽器の響きにかき消される。


 ジュリエットの指は休みなく弦をはじいている。それでわかったのは、他の登場人物にはマンドリンの音しか聞こえていないということ。観客の耳に届くのは、ロミオに心を奪われたジュリエットの頭の中で響く至福のハーモニーなのだ。


 ロミオはジュリエットに手を差しのべる。ジュリエットは目を伏せる。聞こえるのはマンドリンの音だけになる。


 ロミオはすぐに身を引き、再び踊りだした。そうすれば、彼女の視線が自分に注がれることがわかっているから。空からひらひらと、きらきらした旋律が戻ってくる。


 ロミオの見事な踊りにつられて若い娘が一緒に踊りだす。ロミオも微笑みながら踊り続ける。絡み合う二つの旋律がかき消され、ジュリエットの心は沸き立って輝く雲に乗る。


 曲が終わりに差し掛かると、ロミオは煌めくように舞いながらジュリエットとの距離を詰める。そしてもう一度、ひざまずいて手を差しだす。


 ジュリエットの指がマンドリンの弦から離れる。

 音のない世界で、二人の指がゆっくりと近づく。


 この場面は素晴らしい。


 ナミちゃんの心をとらえたのは別の場面だった。


 第二幕で、ロミオの友人マキューシオがティボルトに殺される。ロミオはティボルトを殺して友の仇を討つ。

 ロミオとジュリエットだけが死ぬ話じゃなかったことに驚いてしまった。同時に、なんで四人も死ぬ話をバレエにするんだ、と腹が立った。


 ジュリエットの母親が、甥であるティボルトの死を嘆き悲しむ。ロミオが彼女にすがりついて許しを乞うところで、ナミちゃんがすすり泣きはじめた。

 私はナミちゃんの耳元にささやいた。「泣くの、早くない?」

 ロミオが死ぬのは、次の第三幕だからだ。


「だって、ジョイスの公演で泣いちゃって、一瞬でも彼を見逃したらもったいない。だから、当日までに涙が枯れるようトレーニングしなきゃ」

 涙声でそう言うと、ナミちゃんはオーケストラに負けない音で鼻をかんだ。

 そのトレーニングの有効性には大いに疑問があるけど、なにも言うまい。


 第三幕、墓所に横たわる仮死状態のジュリエット。

 葬列が去った後も、ジュリエットの両親が決めた婚約者のパリスは彼女の元に残っている。そこに駆けつけたロミオが、いきなりパリスを刺し殺したので、また驚いてしまった。すでに死人が多すぎると思っていたところに、追い打ちをかけられたので余計にショックだった。主役の二人が死ぬのはこれからなのに。


 もう続きはどうでもよくなった。どうせあと二人死んで終わりだし。

 でも、ナミちゃんは食い入るように画面を見つめている。


 ロミオにバレエの主人公らしいロマンティックな見せ場があったのは初めだけ。

 次から次へと死を引き寄せるロミオは、まるで死神の操り人形だ。

 そんなダメすぎる主人公を、確かな技術力と表現力で踊るジョイスが気の毒になってきた。これじゃ才能の無駄遣いだろう。

 ナミちゃんの嗚咽おえつとティッシュを引き抜く音がうるさい。


「眠れる森の美女」の王子はキスで姫を目覚めさせるが、死神の駒でしかないロミオは己の死でジュリエットを甦らせる。目覚めたジュリエットがロミオの死を知る。手足を硬直させたジュリエットの口がゆっくりと、信じられないほど大きく開く。

 凄い。ただ口を開けるだけの動作なのに、顔に開いた暗い穴から声にならない悲鳴がほとばしるのが感じられる。凄すぎて涙がこぼれた。


 ティッシュを引き抜いて頬にあてた。それまで画面に釘付けだったナミちゃんが、私に抱きついてきた。

「やっとわかってくれた。ジョイスって凄いよね!」


 ジョイスの凄さに涙したわけではないけど、なにも言うまい。

 とにかく、この涙は正解だった。ナミちゃんはこれを待っていて、私は正しく反応できた。それがわかって安心すると、気持ちの良い涙が次々とあふれてきた。私たちは抱きあって泣き、ティッシュを奪いあうようにして何度も鼻をかんだ。


「二人とも泣きすぎ」

 苦笑しながらナミちゃんのママが、キッチンから現れた。きれいに盛られたカットフルーツを持って。


「いいねぇ、二人とも純真で。まるで姉妹みたいだ、美しいねぇ」

 冗談とも本気ともとれる口調で、ナミちゃんのパパまで登場した。


 ナミちゃんがみていたバレエの終わりを合図に、両親の時間が流れだしていた。


 この家では、ナミちゃんが主役なのだ。

 

 私は静かに感動していた。

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