第16話 ジョナス・ジョイス

 タカシの声が響いた。

畜生ちくしょう、フェラーリだよ」

 畜生という言葉とは裏腹うらはらに、タカシは妙にうきうきしている。


 タカシは自分の不機嫌を体外に放出し終えると、自動的にモードが切り替わって上機嫌になる体質なのだ。以前からそうだった。


「あれの助手席におまえを乗せて走ったら、最高だろうな」

 前がつまって動けないタカシの車を、隣の車線の赤い車がしずしずと追い越していく。ママの表情は、わからない。


「ボスの車庫にあるのはベンツやトヨタばっかりでさ。つまらないったらありゃしない。金があるんだから、もっといい車に乗ればいいのに。この前、ボスにフェラーリを売り込んでみたんだ。いつでも最高の走りができるようにオレが責任を持って面倒をみますからって。でも興味ないって断られた」


「自分が乗りたいだけでしょう? そんなの向こうだって御見通おみとおしよ」

 二人は一緒に声をあげて笑った。


「あとはマダムだな。美意識の高い人だから、きっかけさえあれば、その気になるはずだ。まだ日本の左側通行が怖くて運転できないって言うから、ボスに頼まれてオレが運転してやる機会が結構あってさ。そういう時は、身を粉にして働いてるよ。車のことはタカシに任せれば間違いないって信頼されるように。


 マダムはもちろん、彼女のチャリティ仲間のおばちゃん連中にだって、まるでエリザベス女王にするみたいにサービスしてやってるんだ。オレはこの目で本物の女王陛下を見てきてるから、本格的だよ。

 マダムは時々『タカシ、やりすぎよ』って言うけど、内心では喜んでるんだ。オレにはわかってる」


「目に浮かぶようね」

 ママがそう言うと、タカシは得意げにへらへら笑った。


 車が動きだした。今度は隣の車列が動かなくなり、タカシの車は歩くような速さで赤い車を追い越した。タカシは上機嫌で歓声をあげた。

「よっしゃ、ざまーみろ!」

 私は心底うんざりしたが、ママはこの幼稚な陽気さに感化されたらしく、くすくす笑いだした。そこから楽しげな二人の、内容の無いおしゃべりがはじまった。


 高速道路を支える太い柱がのろのろと後ろへ流れていく。柱は陰気な灰色で、あちこちスプレーで落書きされている。柱と車道を区切るガードレールには、ぞっとするほど汚れが積もっていて、下にはタバコの吸い殻がぺしゃんこになって散らばっている。


 こめかみが痺れるように痛む。うつむいて窓の外よりさらに暗い足元を見つめていると、目のふちが熱くなってくる。仄かな熱は瞬きする一瞬の間に失われてしまう。繰り返し、繰り返し。


 思いきり涙を流して、とても満たされた気分になったことがあった。

 あれは、いつのことだったろう?


 あれは、ナミちゃんの家でジョイスの「ロミオとジュリエット」をみたときだ。

 ジョナス・ジョイスは人気、実力ともに世界最高峰のバレエダンサー。ナミちゃんは彼の大ファンで、誕生日プレゼントにジョイスのDVDと来日公演チケットを買ってもらって有頂天になっていた。演目はロミオとジュリエット。


 ナミちゃんの家で一緒にジョイスのロミオをみようと誘われたけど、あいにく私は彼のファンではない。おまけに主人公が二人とも死ぬ話なのは知っていたから気が進まなかった。


 私が好きなのは「眠れる森の美女」や「くるみ割り人形」のようなハッピーエンドの演目。美しく華麗な大団円こそ、バレエの醍醐味だと私は思う。


 好きなダンサーは、なんといってもアリーナ・コジョカル。

 スヴェトラーナ・ザハーロワ、ウリヤーナ・ロパートキナ、ディアナ・ヴィシニョーワ、オーレリ・デュポン、ニーナ・アナニアシヴィリ、タマラ・ロホ、シルヴィ・ギエム。みんな神々しいほど美しい。

 男性舞踊手にあまり興味はない。サポートさえ上手なら、誰でも構わない。


 何度も誘われるうちに言い訳が尽きてしまい、しかたなくナミちゃんの家に行くことになった。

 ジョイスの踊りは良かった。有名なだけのことはあると納得したので、そのようにナミちゃんに伝えた。喜ぶかと思ったら「もっと、ちゃんとみて」と、早口で怒られてしまった。


 体の内側から胸の骨を、マチガイ、マチガイ、と小人に叩かれている気分だった。

 同い年の女の子と同じものをみているはずなのに、同じ気持ちになれない。どうすればナミちゃんは満足するのだろう?


 気を取り直して、もっとちゃんとジョイスの良いところを探してみる。

 スタイルが良い。軸がぶれない。ジャンプが高い。だから、彼のファンが大勢いるのはよくわかる。でも、それ以上のことは何も思いつけない。

 

 プロコフィエフの曲は美しいけど陰鬱いんうつなのがいけない。華やかな舞踏会の音楽さえ、悲劇の前夜祭のように重苦しい。こちらも私の好みではない。

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