第18話 スマイルこぶ

 渋谷駅周辺の混雑を抜けると急に道が開けた。

 タカシの車がぐんぐん坂を上るにつれて、あんなに大きく暗い影を落としていた高速道路が沈んでいき、ついにはトンネルになって地下に潜ってしまった。


 横断歩道の手前で車が停まった。

 窓の外は光にあふれている。柳の枝が風にそよいで緑色の優雅な曲線を描き、高層ビルの窓ガラスがキラキラしている。


 はじけるような笑い声があがった。タカシが頬の肉をつまんでおどけている。

「そりゃもう見事なスマイルこぶ。この場の仕切りはアタシよ。みんなアタシに従いなさい、って感じでさ」


 スマイルこぶ、それは辞書にもウィキペディアにもない言葉だ。アメリカ大統領夫妻を見ながら、ママが思いついた言葉だから。

 そのとき一緒にいたのは、間違いなく私だけだったのに。


 ママはテレビでアメリカ大統領の映像が流れると、たちの悪い酔っぱらいのように悪口を言う時があって困る。

「この大統領の先祖は温泉猿ね。顔を見ればわかる」

 普段のママらしくない、おそろしく非科学的な中傷だ。


 ママだって当然知っているはずだ。温泉猿から人間に進化するなんてありえない。

 ヒトの先祖とサルの先祖は同じ。だからといって、私たちが温泉猿から進化したわけではないし、そのような猿がいつか人間に進化するということもありえない。


 ママは大統領夫人にも容赦なく難癖なんくせをつけた。

「彼女は、いつも笑顔。夫の話が眠くなるほど退屈でも、寒気がするほど不愉快でも。きっと内容は右から左に聞き流してる。でも、夫の冗談だけは聞き逃がさない。大口開けて笑うのが誰よりも早いもの。彼の唐突でくだらない発言は、彼女が大げさに笑ってみせることで冗談だと伝わるのよ。


 彼女は頬の筋肉を使って命令するの『これは大統領の冗談だ、笑え!』って。力こぶを見せれば上品な威嚇になると思いこんでる奴らと同じで、頬の筋肉を盛り上げて見せれば、他人をコントロールできると思っている」


 そう言ってママは、頬骨の上の肉をつまんでグロテスクに盛り上げてみせた。おどけているつもりなのかもしれないが、私はまるで自分の頬が挟まれて無理に引き上げられているように感じた。


 ママは架空の大統領夫人になりきって大声をあげた。

「私は楽しんでいるの。批判は許さない。あなたたちも楽しみなさい!」

 そして、やっと頬から手を放した。ママの美しい顔の中ほどには、指の跡が白っぽく残っていた。

「この社交用の筋肉に名前をつけるべきね。そうねぇ、スマイルこぶ。これで決まり」


 いくら美人で優秀でも、こんな調子で仕事が務まるはずはない。きっと、心を許している私にだけ、そとでは言わないことを言ったのだ。ママと私しか知らない内緒の言葉だと思っていたから、今まで一度も使わずにいたのに。

 だから、タカシが「スマイルこぶ」を知っているはずはないのだ。


 ママは美しい人だから、男なら誰だって親しくなりたいと思うはず。だから、タカシがママを好きになるのは、不愉快だけど理解はできる。

 タカシはママを面倒に巻きこんで、後始末を押しつけて逃げた奴だ。だから、ママはタカシが大嫌いなはず。なのに、タカシと一緒のママはなんだか楽しそうだ。


 面接に行くだけなら、住所を知っていれば事足ことたりる。なぜタカシは家の近くまで迎えに来たのだろう。一緒に行く必要なんて全くないのに。

 考えれば考えるほど、正しい答えは深く埋もれていくようだ。


 タカシの車は速度を上げて坂を下っていく。地下に潜ったはずの高速道路が嘘のようにせり上がってきて、あっという間に車は再び影の底に沈んだ。


 坂の下にある交差点まであと少しのところでトラックに追いついた。信号の先はまた上り坂だ。安全運転宣言車、と後部扉に書かれたトラックに貼りつくようにして、タカシの車はのろのろと暗い坂を上がっていく。フロントガラスから見えるのは、銀色のかんぬきが掛けられた白い扉だけだ。


 高速道路の裏側が暗い天井になって、ゆっくり迫ってくる。巨大な橋脚はところどころ塗装が剥がれ、かさぶたのようなさびを痛々しくのぞかせている。


 路肩のコンクリートの裂け目から、雑草が光を求めてあてもなく葉を伸ばしている。

 極端に刈り込まれて枝を失った街路樹がボロをまとうように、ゴツゴツした幹に葉を茂らせている。

 私たちは生きる場所を選べない。


 押しつぶされそうなほど天井が下がったところで、やっと道路が平らになった。

 「ほら、六本木ヒルズだ。これからは歩いていけるぞ。ロブションかなんかでケーキを買ってさ、店員に『お持ち歩きのお時間は?』と聞かれたら『いやいや、保冷剤なんか必要ありませんよ。すぐそこですから』なんて言ったりしてな」

 タカシがくだらない一人芝居をして笑っている。


 ママは「バカねえ」とため息をついてから、こらえきれずに噴きだした。

 私は絶対に行くもんか、と思いながらもタカシの鼻の先に目をやった。テレビでしか見たことがない高層ビルの姿は、高速道路に遮られ、エスカレーターとトンネルしか見えなかった。


「歩いて行けるといえばさ、ボスの屋敷の近くにインターナショナルスクールがあってさ。どうせ転校するんだし、せっかく近くに住むんだから入れてやれば? 英語がしゃべれないと、将来苦労するんじゃないの?」

 

 英語で授業が行われるインターナショナルスクールに私を入学させる、という提案がタカシの口から飛びだしたのは意外だった。けれども、相変わらずタカシはずれている。英語がしゃべれなくて苦労するのは、将来ではない。今だ。私は苦労しているのだ、既に。


「冗談じゃない。インターの学費がいくらするか、知ってて言ってるの?」

 私のところからは見えないが、ママの表情が強張っているのは声でわかる。

 「公立の学校で充分。今はネットだってあるんだから、人より勉強するかどうかは本人が決めること」

 ママは声を荒げた。多分、車に乗ってから初めてだ。

「それに、インターなんかに通って変な繋がりができたら厄介なのよ」


「そんなに心配すんなって」

 タカシはのんびりした口調で左腕を広げながら言った。

「世界は広い、だろ?」

「あいつらの世界は狭いのよ」

 そう断言して、ママは私をちらっと見た。それからは英語に切り替えて話したので、内容はさっぱりわからなくなった。


 英語を話しているときのママの声は、低くて芯がある。音が後ろの席までパリッと響く。さっきまでの、ふわっとした高めの声で、差しだすような口調だった時とは呼吸の仕方から違う。大きく息を吸って必要なものを取り込み、不要になったものをすっかり吐きだす。力と熱を取り戻した血液が隅々まで行きわたり、声にエネルギーを与えている、そんな感じ。


 内容は全然わからなくても、二人の雰囲気の変化は感じられる。タカシが運転に集中しているふりで視線をそらせても、ママは相手から目を離さない。タカシの口から短い言葉が不機嫌に発せられても、ママの言葉は少しもよどまない。

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