第19話 高射砲

 反対車線からきた渋谷駅行きのバスとちがった。帰りはあのバスに乗ればいい。バス停を見つけたかったのに、タカシの車は交差点で曲がってしまった。

 高速道路の下から抜けだして空はひらけたけど、道の両側には背の高いビルが隙間なく並んでいる。空も、歩道も狭い。交通安全宣言車はいつの間にかどこかへ行ってしまって、かわりにフロントガラスからはみ出すほど大きな東京タワーが見えた。


 そのまま直進かと思ったら、すぐに曲がって坂を下り、また曲がって坂を上り、そんなことを繰り返すうちに道幅はどんどん狭くなり、ついに車がやっと一台通れるほどの狭い道に入った。


 一人で歩いている警察官の後ろ姿が見えた。タカシは警官をゆっくり追い抜きながら窓を開け、右手を顔の高さにげると「どーもー。お疲れさまです」と、いかにも人懐ひとなつこく挨拶した。警官はタカシに一瞥いちべつを投げた。


 この男を前方不注意で逮捕してください!


 という私の無言の哀願も空しく、警官はタカシを職務範囲外の人物と判断したらしかった。表情も歩調も変えずに歩き続け、やがて視界から消えてしまった。


 タカシは窓を閉めると得意げに説明した。

「この辺はVIPが住んでるから警備が厳しいんだ。だから、つまんないことで引っ張られないように、こうやって顔を売っとかないと」


 私は静かに息を吐きながら念じた。

 この辺に出没する勘違い男として、警察署の休憩室で笑い者になるがいい。


 タカシの車が停止し、耳の奥がすっとなるほど静かになった。

 目の前には巨大な門があった。その真ん中に隙間ができ、そこからスローモーションのように両開きの門が開いていく。


 タカシはダッシュボードから、派手な赤いリボンがかかった小箱を取りだすと、

「今日の主役に」と言って、ママに手渡した。


 ママがリボンをほどいて小箱を開けると、そこには高射砲のような角度で備えつけられたダイヤの指輪が入っていた。


 もっと英語がわかれば、もっとママを理解できて、穏やかな気持ちで過ごせると思っていた。でもそんなに単純じゃなかった。むしろ世界がひっくり返るような悪いニュースなら、知らないままの方がいい。どうせ私には何もできないから。


 タカシは英語でママにプロポーズした。

 ママは英語で承諾の言葉を叫んだ。二回も。


 車が門の内側に吸い込まれていく。路面に叩きつけるような雨音が響く。窓の外は憎らしいほど明るいのに。やっぱり、これは悪い夢に違いない。

 激しい雨音が途切れ、エンジンが停止し、ふいに全ての音が消えた。

 指先から冷たいものがどっと上ってきて、自分を抱きしめるようにして震えを抑えこむ。


 前から差しこむ光に顔を上げると、すでに車を降りたママが手慣れた動作で座席を滑らせていた。ママは一歩後ろに退くと、晴れやかな声で私に呼びかけた。

 動きたくなかったけど、ママが望むなら従うしかない。

「早く」

 ママが手を差し伸べた。

 その手には、豆まきの豆くらいの大粒のダイヤが煌めいていた。

 ママの表情も輝いている。いつにも増してきれいだった。


 ずっと努力してきたのに。

 ママが機嫌良く過ごせるように、ママの邪魔にならないように、ママをわずらわせないように。

 でも、どうしても上手くいかなかった。


 近頃は、こう思うようになっていた。

 ママの問題は、借金だったり仕事だったり、要するに金の問題だ。だから、それが解決しない限りママは幸せにはなれない、と。

 それは見当違いだったらしい。ショックだった。

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