第24話 ゴージャスなトイレ

 駆け込んだ先は、私が知る限りにおいて最もゴージャスなトイレだった。


 名画の額縁のような、さざ波を思わせる繊細な彫刻に縁取られた鏡がいくつも並んでいる。気後れしている場合ではない。えいっと鏡の前に立った。


 私の右頬には、半開きになった唇の形が魚拓ぎょたくのように転写されていた。反対側にはにじんだキスマークの残骸が貼りついている。


 自分の顔が、これほど非現実的に見えたことはない。ため息がでるほど美しい鏡に映ったありえないほどのマヌケづら

 こんな顔でフィリップに同盟を申し込もうとしたり、ノーサンキューと言い放っていたさっきの自分をどこかに埋めてしまいたかった。


 羞恥心しゅうちしんを無理やり脇へ追いやって、さしせまった現実的な問題に集中する。

 どうやって口紅を落とそうか? 

 舞台用メイクの経験があるから手順は知ってるけど、クレンジング用品が手元にない。備え付けのハンドソープだけできれいになるとは思えないし、どうしよう。


「歌舞伎役者はね、こうやってメイクを落とすんだって。テレビでやってた」

 バレエ発表会後の楽屋で、顔にティッシュペーパーを押し当てて、ふざけていたのは誰だったっけ。


隈取くまどりを写し取った布をファンの人にプレゼントしたり、売ったりするんだって。そういうの、バレエでもあればいいのに」

 そこから、どのバレエダンサーのが欲しいかという大騒ぎになって、しまいにはリョウコ先生に一喝いっかつされたのだった。


 鏡の中では、左右のキスマークに挟まれた本物の唇が縮こまって、笑いを押しつぶそうとしている。でも、あまり上手くいっているとはいえない。

 私は奥の個室に向かった。


 扉を開けると、スポットライトのように個室の照明が灯り、しずしずと便座の蓋が開いた。この演出はミンラのユーモアだろうか。


 トイレットペーパーが柔らかくて上質なもので助かった。紙に口紅がつかなくなるまで、繰り返し頬をぬぐう。おしりを拭いているようで微妙な気分だ。

 トイレットペーパーを便座に投げ捨て、水を流した。恥を拭き取った紙が小気味よく渦を巻いて消えていく。


 もう一度、鏡に映る顔を見にいった。唇の形が失われたかわりに、頬に薄っすらと赤味が広がっている。頬紅を間違った位置につけてしまった人のようだが、前より格段にマトモな顔になったのは間違いない。


 手洗い用の石鹸水を泡立てて顔を洗うと、残りの赤味がきれいに落ちた。頬を鏡に思いきり近づけて点検しても、変なところは全くない。

 ボスとフィリップの連係プレーのおかげで、ママにもタカシにもマヌケ面を見られていない。これで証拠隠滅。気持ちが楽になって笑みが広がる。


 ライトに照らされた顔をあらためて眺めた。

 ここには、普通の洗面所の鏡に映るような影がない。楽屋の鏡みたい。


 柔らかな光を受けた瞳の中心に、黒くて小さな太陽をみつけた。

 拍動するように膨らんだり縮んだりしながら、虹彩に黒い光を放っている。


 美しい。


 そう思った。

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