第23話 思いやりの嘘か、身も蓋もない真実か

 昼食のために、別の部屋へ移動することになったらしい。

 ミンラとママ、ボスとタカシが連れだって部屋をでた。残っていたフィリップがそろそろと歩きだした。彼から距離をとり、私も後に続いた。


 急にフィリップが振り返って話しかけてきた。早すぎて一言ひとことも理解できない。彼は長々ながながと喋ってから『今、上手いこと言ったでしょう?』という感じの得意げな笑顔になった。


 調子をあわせて笑うべきか、わからなかったと白状すべきか。思いやりの嘘か、身も蓋もない真実か。どちらも選べないまま、互いの歩みはとまり、見つめあいながら沈黙だけが流れた。


 フィリップは頬の筋肉を弛緩しかんさせ、真面目な表情で語りかけてきた。どうやら、私には何かすべきことがあると言いたいらしい。でも肝心の「何か」が全然わからない。


 ダメだ、降参。「アイムソーリーごめんなさい」我ながら消え入るような声だった。

 英語では後が続かないので、日本語で言うことにした。ダメでもともとだ。

「日本語で話していただけますか?」


 相手は目を見開いた。今の今まで、私と意思の疎通ができていないとは思ってなかったのだ。なんだか申し訳ない。

 内心の動揺を隠すためなのか、フィリップは「あー」でも「うー」でも「えー」でもない不思議な声で唸ってから、急に「ごめんなさい」と言った。彼の日本語の発音は完璧だった。


 素晴らしい。お互いの語学力が同等であることを確認した。

 これ以上の会話は不可能だ。今こそ、通訳が必要な時。

 ちょうど、突き当たりのドアの向こうに大人たちが消えていくところだった。川端さんが、ちらっとこっちを見た。その視線をとらえ、全力でテレパシーを送った。


 待ってください。助けてください!


 あっさり無視されて、無情にもドアを閉められた。

 日本語が通じる同士、阿吽あうんの呼吸と以心伝心で空気を読んでほしかった。ママの仕事を奪うことにはならないのだから。


 フィリップが、私の後方を指さして何か言った。今度は何となくわかった。トイレの場所を教えてくれたのだと思う。

 時と場合によっては、非常に有益な情報だ。教えてくれてありがとう。私は頷いて「サンキュー」と言った。フィリップはにっこりした。一件落着。


 さあ、ママたちに追いつかなくては。先に進もうとすると、彼が進路を遮った。そして「みんなに伝えておくから、あなたはトイレに行きなさい」的なことを言ってくる。


「ノーサンキュー」きっぱりと首を横に振った。

 今、トイレに行く必要はないし、必要もないことをしてみんなを待たせたら、後でママに怒られてしまう。


 私の抵抗にあってもフィリップは頑固に道を譲らない。廊下の真ん中に突っ立ったまま、腰に手を当てて口をへの字に結び、斜め上を向いて鼻から長く息を吐きだした。そのまま、天井と壁の境界線あたりを見続けている。そこからにじみでてくるはずの解決策を待ち構えているかのように。


 彼の脇を走り抜けたら、追いつかれる前にドアを開けられるだろうか。私がタイミングを計っていると、フィリップは意を決したように私を見つめ、ポケットに手を突っ込み、四角く畳まれた白いハンカチを取りだした。


 これは昔の映画やドラマでよくある、あれだろうか。ハンカチに染み込ませた薬を嗅がせて意識を失ったところで連れ去る、みたいな。


 私の妄想に反して、彼は意外な行動をとった。ハンカチを一振りして広げると、降参するように両手を上げて片膝をついた。

 つやつやした黒い革靴。土踏まずから甲にかけてのカーブが美しい。


 もしかして、私は混乱と恐怖のあまり「ぶっ殺すぞ」くらいのことを言ってしまったのだろうか?

 殺してやる、を頭の中で英作文する。ちゃんとできる。できるということは、口走った可能性があるということだ。どうしよう。


 さっと指にハンカチを巻きつけると、人質をとった凶悪犯に対峙する捜査官のように、フィリップが話しかけてきた。多分、こんな意味だと思う。

「いいかい、リサ。これから、きみの顔に触るから、動かないで」


 動かないで、が理解できたのに大きく頷いてしまった。後は、できるだけじっとして、白いハンカチにおおわれた指先が近づいてくるのを見ていた。唇の横をこすられて、思わず一歩後ずさる。彼はハンカチを広げた。

「リサ、これを見て」


 真っ白なハンカチの一部が赤く染まっていてる。すっと血の気が引いたが、よく見れば血の赤ではない。それが口紅の赤だとわかった途端、頬が熱くなった。

 口紅だ、きっとミンラの口紅だ。つまり、頬にキスマークがついているのか?


「こういう理由で、きみは化粧室に行く必要が……」

 という説明を終わりまで聞かず、私はトイレに向かって駆けだしていた。

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