第25話 バルコニー

 さっきの場所まで小走りで戻ると、重そうな木製の扉が自動的に開いた。ドアを開けたのは川端さんだった。

 どうして私が戻ってきたのがわかったのだろう?


 グラスの輝きをチェックするように私の頬を見た川端さんが、満足気まんぞくげに頷いた。言葉はなくても、全てを承知しているのは明らかだった。彼もレスキューチームの一員だったに違いない。


 タカシの軽薄な笑い声がした。ママとミンラが話している声も。部屋のこちら側は薄暗く、声のするほうは日の光がさしている。


 川端さんにうながされて向かった先には、広いバルコニーがあった。豪華客船の舳先へさきのように大都会の空に張り出している。一足ごとに景色が広がる。靴底の感覚が絨毯からタイルに変わったところで息をのんだ。まるで空に浮かんでいるみたい。真正面に、東京タワーがきれいに見える。


 そよ風が心地よく肌をなで、服のレースを震わせる。足元の硬さを頼りに、引き寄せられるように先端まで行ってみた。

 手すりにつかまって下をのぞくと、青々と葉を茂らせた生垣いけがきが建物を取り囲んでいる。その先は、コンクリートで固められた断崖だった。急に風が冷たく感じられた。


 戻ろうとしたところで、ママと目があった。

「素晴らしい眺めね。見た?」

 ママは上機嫌だった。良かった、私の不在に気づいてなくて。

 ミンラが笑いかけてきた。彼女も私がずっと一緒だったと思ってるらしい。キスマークのことといい、きっと大雑把おおざっぱな性格なんだろう。


 いつの間にか丸テーブルと椅子がしつらえられ、お茶の用意がととのっていた。

 タカシとボス、フィリップが先に席についた。ママはミンラと並んで座るべきだし、タカシのそばは嫌だったので、私はフィリップの隣に座った。


 フィリップは眉をちょっと上げて私に合図すると、語りはじめたボスの方を向いてしまった。お礼を言いたかったけど、何も言わないでいい、ということらしい。


 金色の唐草模様がついた小さな器が並べられ、琥珀色こはくいろのお茶が注がれた。テーブルの真ん中に、黄金の草で編んだような籠がうやうやしく置かれた。中には、しわしわで黒っぽいドライフルーツのようなものがぎっしり入っている。

 金の籠のそばに、小ぶりの銀の籠が置かれた。こちらは空っぽだった。


 ママとミンラが遅れてやってきた。ミンラはアイスクリームを食べにきた浜辺の子供みたいに満面の笑みを浮かべている。ごく自然にママはタカシの隣に座り、一つだけ空いた私の隣にはミンラが座った。


 私は幼児ではない。それに、婚約者同士なら並んで席に着くのは変じゃない。

 そんなこと頭ではわかっている。それでも、ママが私でなくタカシの隣を選んだことに、体の芯が凍りつくような失望を味わった。


 「私の大好物」とミンラは嬉しそうに金の籠に手を伸ばした。

 真っ赤な長い爪で、紫がかった黒光りする果肉をつまみ、半分に引き裂いて口に入れた。残りの半分から銀色の綿毛がびっしり生えた種を取りだすと、サイコロを転がすようにして銀の籠に入れ、お茶を飲んだ。


「食べなさい、頭が良くなるから。お茶も飲みなさい、健康に良いから」

 というようなことを、ミンラは盛んに言っている。

 ママは視線でタカシに問いかけた。タカシは表情を変えずに、ママにだけわかるくらいに小さく首を振った。


 だから私は、お茶を飲んだ。

 まずかった。率直にいって、ものすごくまずかった。

 婉曲に表現すれば、病んだ体にはものすごく良さそうなスパイスの効いた薬湯、という感じ。口の中も鼻の中も薬臭くて、唾があふれてくる。

 おもいっきり眉間に皺を寄せている顔を、しっかりボスに見られてしまった。


 ボスは全員を見渡して重々しく何事か宣言し、ゆっくり実を食べ、お茶を飲んだ。ミンラは笑いだし、フィリップは肩をすくめた。ボスの英語にはミンラともフィリップとも異なる強いアクセントがあって、内容はさっぱりわからなかった。


「ブラボー。愛しい夫のために、もっと賢くならなくては」

 赤いくちばしが実をついばむように、ミンラの爪が器用に種を取りだした。夫婦は微笑みながらタイミングをあわせ、種を銀の籠に投げ入れた。


 二つの種がころがる軽やかな音がやむと、タカシがくだらないジョークを飛ばして自分だけ大笑いした。思惑おもわくほどはウケなかったらしく、お手本のようなスマイルこぶを見せびらかしながら、籠の中の小鳥よろしく首を振っている。


 ママは愚かな雄鳥に弱々しく微笑みかけた。ボスが短い笑い声をあげると、とりあえずの餌をもらえたタカシは人間に戻った。

 それをきっかけに、大人たちは一斉いっせいに喋りだした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る